あきこの部屋

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#ADOBEMAX でジョン前田を見た&もらったフォント警察手帳がまじウケる

2018年10月15日 – 2018年10月17日、ロスアンゼルスで開催されたクリエイティブカンファレンス「Adobe MAX」に行ってきました。Adobe(アドビ)といえば「フォトショ」「イラレ」なんかで知られている、プロから平民まで幅広いクリエイティビティを応援するカンパニー。「Adobe MAX」は62か国から14,000人を超えるアドビを使うクリエイターたちが集う、クリエイティビティの盛大な祭典です。


th_AdobeMAX2018-001 こちら、CEOのシャンタヌ・ナラヤンさん!お見知りおきを!

th_AdobeMAX2018-036 世界中から14000人のデザイナーやアートディレクター、クリエイティブディレクターが集結。

th_AdobeMAX2018-045 エグゼクティブが登場し、世界で初めてここで発表される新しい機能などが紹介される基調講演、ツールの使い方を学べたりセッション、見本市的なパビリオン、BECKがライブをするパーティ「bash」など様々な要素で構成される、複合的なイベントです。公式サイトはこちら

th_AdobeMAX2018-049 14000人のクリエイター集合ってすごいですよね。ちなみにパスのお値段は$1,595です。

DSCF5430 ちなみにジョン・マエダさんのセッションもありました!!!すごくユーモアがあってキュートな人で、ずっと冗談を言っていました。「もう僕はYouTubeのカメラに向かって喋るのは飽きたんだよ」「みんなの顔が見たいんだよ。いいかい、君たちはいま巨大なSUVに乗っている。つまり、前に乗っているほうがいい体験ができるってこと。一番前の列はファーストクラスだよ、ミントが入ったドリンクがもらえたりするね。二列目はビジネスシート。1800ドルくらいするんじゃない?3席あいてるよ、みんな前に来て」「ああいま、娘からメールが来ちゃった。僕の車を使いたいんだって。僕の娘はいつでも僕の車を使いたいと思っているんだよね」とかなんとか、ずーーーーーーーーーーーーーーっと喋ってました、かわいい人でした。

→【FYI】最近彼はYouTuberをしているので…



こちらご覧ください。

DSCF5455 ジョンさんが学生時代に作ったメタルの作品。「こんなに面倒くさいことをするならデジタル空間でなんかしたい」と思ったことが彼をデジタルの道に..ebayで買ったMacbookG3でプレゼンしてました。詳細はまたこんど!

IMG_2050 モリサワ様に連れてっていただいたただのファンたち

で。

それで、 #ADOBEMAX ではいろいろなお土産ももらえたりするんです。今回はアディダスとコラボして、デザインした靴をストアにARでディスプレイしちゃうなんていう未来の新製品「Project Aero」なんかも紹介していましたが…..最もエキサイティングだったのは「フォント警察」の名に恥じない手帳!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

IMG_4066 (1) フォント警察の名に恥じぬ重厚さ

最近文字っ子とかが話題ですが、これはガチすぎてヤバイ。
これはアメリカのスピード違反きっぷですが、、

ProductShot_73-01
#ADOBEMAX のためにこのフォント警察プレゼントをくれたのは、Hoefler & Co. (旧Hoefler & Frere-Jones)。中村勇吾さんがよく使っている「Gotham」のフォントベンダー。ちなみに今回、Typekitの名称で提供されていたAdobe CCのフォントが「Adobe Fonts」という名前になり、Creative Cloud プランでは同時使用できるフォント数の上限を廃止!!!!!!!!!!!!!!!!商用にも使える数千にのぼる商用フォントが利用可能、、詳しくはこちら

IMG_3229 (1) 立派
IMG_6807 (1) 違反リスト

IMG_0476 (1) まず、ジャンルを選んでください!それは広告?WEB?それともアプリ?

IMG_4023 いろんな罪があります。ありすぎます。


・タイプフェイスのチョイスがひどい。250ドルの罰金
・皮肉じゃなくヘルベチカを使ってる 175ドルの罰金
・TIMES ROMANを公共の場で使う 100ドルの罰金
・名前だけでフォントを選んだ 75ドルの罰金
・かっこいい引用しようとして大失敗 150ドルの罰金
・向こう見ずなデコラティブ文字を使う 250ドルの罰金
・不適的なスペース 275ドルの罰金
・不適切なジャスティファイ 200ドルの罰金
・不適切なカーニング 740ドルの罰金
・人工的なイタリック体を使った罪 500ドルの罰金
・フォントと呼ぶのか、タイプフェイスと呼ぶのかでマウンティングを繰り広げる 1000ドルの罰金

高い。高すぎる

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素晴らしいフォントを知りたければ僕らのところに来てということで、、ごちそうさまでした

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ちなみに来年のMAXの日程、既に出ております!

Conference November 4–6, 2019
Preconference November 2–3, 2019

ご予約はこちらをチェック!

山形一生× 山本悠のゲームトーク!〜ファイナルファンタジーについて

th_IMG_1880––––––– 2017年12月、都内のサイゼリヤにて

齋藤 今日はお集まり頂きありがとうございます。ビデオゲームについて語る「ゲームトーク」をこれから初めて行きたいと思います。記念すべき第一回には、現代美術家の山形一生さんとイラストレーターの山本悠さんをお招きいたしました。というのも、山形くんのゲームの語り口ってすごい独特なんですよ。何十年前にプレイしたゲームでも、昨日やっていたかのように鮮やかに思い出して鮮烈に語ってくれるという。

山形 ゲームのことなら話せると思います。まず、何から話しましょう。

齋藤 まずは山形くんとゲームとの馴れ初めからお願いします。

ゲームの原体験


山形 僕は物心つく頃には既にゲームをやっていました。親戚が多くて、そのお下がりとしてゲームを貰っていたので、当時からすごい量のゲームが手元にあった。ファミコン、スーパーファミコン、ディスクシステム、ゲームボーイがあって、ソフトも合計で50本以上はありました。幼稚園の友人と《スーパーマリオRPG》を一緒にした記憶がありますから、少なくとも幼稚園に入る時にはゲームは普通のものとしてやっていたんですね。



自分で意識的にゲームを購入した記憶は今でも覚えていて、PS本体と一緒に《デジモンワールド》を購入しました。1999年1月のことなので、9歳の頃です。母と一緒に買いにいったのですが、購入直後に母を置いてすぐに家に帰った記憶があります。本当に情けない…。当時はモンスター育成シミュレーションなど、言わば人間を中心としないゲームが流行っていて、《モンスターファーム》 、《ドラクエモンスターズ》、《遊戯王 カプセルモンスターコロシアム》、《モンスターコンプリワールド》、《ドラゴンシーズ》とか…、言うとキリがないですね。《ポケットモンスター》は言うまでもないですが、僕はそういったモンスター育成ゲームを好んでやっていました。だから最初に購入した《デジモンワールド》もその流れで購入したんでしょう。

当時はゲーム脳というワードを筆頭に、ゲームに対する弾圧がまだ強かった。ゲームをすると暴力的な性格に育つとか、脳が萎縮するとか、世間は否定的でした。やはり僕の父も同じく否定的で良い顔をしていなかった。ゲームというメディアの経験の無い世代からすると、得体の知れないものに写ったんでしょう。外にもいかないで、勉強もしないで、なんでこんな映像に夢中になってボタンを押し続けているんだと。当時はテレビも一家に一台で、それを家族が共有して使うものでしたから、僕がゲームをする度にテレビを独占するのも拍車をかけたんだと思います。だから父とは何度も衝突しました。一番ひどかった時は、プレイ最中にもかかわらずゲーム機を持ち上げられて、そのまま窓から庭へぶん投げられた。

山本 それくらいやり続けていたんだ。

山形 毎日やっていた。高橋名人との約束とかも守るわけなくて、親が怒る寸前までやっていた。小学校高学年にもなると親が寝静まったのを良いことに、深夜3時ごろに起きてゲームをやっていた。それで登校時間までゲームをして学校にいく。こんな生活をしてたから、親は本当に僕のことを心配したと思う。

母は攻略本をたくさん買ってくれました。少しでも文字を読んでくれるのならと思ったのでしょう。だから当時の誰よりも攻略本は読んでいたと思います。RPGの攻略本って内容が内容なので分厚いものが多く、それこそ本当に辞書のような厚みがあった。アルティマニアとかまさにそうですよね。当時は◯◯◯大辞典、◯◯◯大宝庫のような名前をした辞書的なゲーム本がやはり多かった。母も何故か「分厚いゲームの本なら買ってあげる」と言っていて、そういう本ばかり持っていました。僕はゲームのことなら好きになれたので、ゲームを通して学習をしていた側面は間違いなくあったと思います。

まあ、しかしながら、そんな生活ばかりしていると一応は歪んだというか…変わった子が育ってしまいます。大半の時間をゲームに捧げていたので、人と上手く話せない子になっていました。その人がゲームをやっていたり、知っていないと共通の話題や知識が全く無いわけです。だからゲームを知っている人、それも結構なゲーマーでないと仲良くなることは難しかった。けれど小学校で唯一、一人だけ本当に仲の良い友達ができた。彼は牧野くんって言う、ちょっとデブな男の子だったのだけど––––––

齋藤 同級生の個人名出てきた。

山形 その子もかなりのゲーマーだったんです。家に遊びに行くと、彼には自分の部屋があって、部屋にはゲーム専用の本棚があった。そこにはSFCのカセットが大量にズラー!っと並んでいて、全てのゲームを持っているんじゃないかと思った。バーチャルボーイとか、ハードもたくさん持っていた。僕の小学校生活は毎日のように彼と遊ぶことで過ぎていって、それが安息の地と化していました。

でも彼以外の友達は出来ることは本当になくて、ゲームを通して関係性を築いていくしかなかった。僕はいつも友人の家に行く際にはゲームのハードとソフトを一式リュックに詰め込んで遊びに行ってました。完全にイってます。でも友達はすぐゲームに飽きてしまって、外に遊びにいきたくなる。けれど僕は行かない。だからいつも友達は途中で外に出ていって、僕はその友達の家のテレビでゲームをしていた。友達の家にいるのに、当の友達は外で遊んで、僕は友達の家で一人ゲームをしている。そんなやつが遊びにくると、その友人の両親は良い顔をしないわけです。次第に遊べなくなる子が増えていって…たぶん親が『もう山形くんとは遊んじゃ駄目』って言っていたんだと思います。

山本 『あいつはゲーム狂いだから遊んじゃだめだ!』

齋藤 そりゃ言われるだろうね。

山形 だから友達は本当に居なかった。牧野くんを中心に、あと本当に少しだけ。

齋藤 友達の家にソフト持っていくのはわかるけど、ハードを持っていくのはやばすぎる。

山形 そんな生活を中学卒業頃までずっとしていたので、高校入学までの学校生活には良い思い出がありません。高校は美術系の高校に通い始め、吹奏楽部にも入ったので忙しくなったんですね。

齋藤 デジモンとか遊戯王って友達と遊べるものだけど、それで友達が出来たりもしなかったんだ?

山形 僕は大抵の物を2つ以上持っていたんです。デジモンも、たまごっちも2つ持っていた。ゲームボーイですら2つ持っていたし、ポケモンも全色持っていた。両親は決して同じ物を買い与える事はしないのですが、おじいちゃんおばあちゃんに言えば、買って貰えたんです。だから僕に友達がいなくても––––––––––

山本 不自由はない。『せめて一生が…ゲームにだけは不自由しないように…っ!』

山形 だから友達が居なくても僕はポケモン交換できたしポケモンバトルも出来た。一人でもゲンガーやゴローニャが作れる。デジモンも一人でガチャン!ってバトルをする。ペンデュラムなら左手と右手でシャカシャカして…すみません、長くなりました…。ここまで話したことが、僕の幼少期のすべてと考えてもらって良いです。

齋藤 泣けるなあ。それでは山本悠に聞いてみましょう。どんな風にゲームをしてきたの?

山本 子供のころの記憶がほとんどないのだけど、なぜかこの時の記憶だけ本当に鮮明にあるんだよ。幼稚園にいくバスに乗っていたとき。『ドンキーの裏技で一番びっくりしたやつなに?』って会話が聞こえてきた。園の友達が《スーパードンキーコング》の攻略情報を交換していた。『ローリングアタックで空中ジャンプかな』って二人が話している。テレビCMなんかで得た断片的なドンキーコングの情報しかないのに、『空中でローリングアタックしてジャンプ!?』って頭の中に仮のドンキーコングの世界が広がった。そんな我が家についにゲーム機が来た。それがお下がりのファミリーコンピューターだったんです。ファミコンだから、『みんながやっているゲームと音が違うな…』と。まあ、それはそれでかっこいいかなと。




山形 ファミコンが最初だったんだね。

山本 はじめてプレイしたビデオゲームは、パソコンでやるゲーム。押すキーを父親に教わりながら、キーボードでプレイした。ゲームのタイトルは忘れてしまって、もう今ではわからない…。勇者を動かしてマップを進んでいく《ドルアーガの塔》や《ハイドライド》みたいな感じのゲームなんだけど。ステージを進むと、お姫さまがいて、帰り道はお姫さまが勇者の後ろをついてくる。姫が炎に当たったりすると死んじゃうから、難易度が上がる。姫を守ってマップの入り口まで生還するっていう。


山形 僕も悠くんの話で思い出したのだけど、人生で一番最初にやったゲームはWindows95の《Hover!》っていうゲームだ。ホバリングしている車みたいな乗り物を操作するゲームで、一人称視点の3Dゲーム。マップに点在された旗を、車を操作して回収していくというシンプルなゲームで全3ステージしかない。当時はまだそれこそ幼児だったから、ルールとか全然わからなくて、ただ操作してるだけだった。キーボードの矢印キーだけ理解できていたんですね。で、その車を操作していて、壁にあたるとカンッ!ってすごい硬い音がする。それが面白くて、ひたすら壁にぶつかってカンカンしてたな。

山本 ただ、押して動くぞってだけで楽しいんだよね。しかも音が鳴るんだもん。



山形 そう、だからどこの壁が一番カンカンできるかっていう遊び方をしていた。細い道を見つけたら、そこに勢いつけてぶつかるともう最高にカンカン出来る。僕はこの《Hover!》というゲームと同時に《ピンボール》が初めてのゲームだった。今でも鮮明に思い出せるものだね。ピンボールもすごい独特な音でびっくりしたな。ブィィイイヨォォオオン!ガチャガチャガチャ!

齋藤 すぐ効果音でてくるね。

山本 山形くんと言えば効果音。

山形 悠くんも僕も、はじめてのゲームはパソコンのゲームだったんだね。


スクウェアと《ファイナルファンタジー》


齋藤 それでは、2人が心酔していたというスクウェアのゲームの話を聞かせてください。

山形 スクウェアのソフトはスクエニ以降や一部を除けば、ほぼやっています。僕も一番やったゲームメーカーです。子供ながらに、スクウェアの会社ロゴを認識していて、この「A」が赤いゲームソフトを買えば間違いないって理解していた。

山本 初めて意識したブランドだったのかもしれないね。僕も『ドラゴンクエストはなんかちょっと違うんだよな』って思いながらプレイしていた。ドラクエはドラクエで素晴らしいんだけど、『ドラクエたいへんだな、ギルが全然たまらないし』って思っていた。

齋藤 ドラクエだからゴールドね!ドラクエⅢは面白くなかった?

山本 投げ出しちゃった。

齋藤 ええー!あんな完璧なゲームを?!

山形 僕もドラクエⅢは投げちゃった。更にはⅦも投げた。だからドラクエでちゃんとクリアしたのはⅠだけ。でもⅢは最初だけすごいやっていて、最初の選択肢で分岐するストーリーは全部やった。質問に対して悪い選択肢ばかり選択すると悪魔になれることが解って、ひたすら村の人々をボォッ!って炎で吐いて焼き殺してた。それが楽しくて満足するまで何度もやっていました。それ以降も続けてはみたんだけど、合わなかったのかすぐ止めてしまった。

山本 楽しいゲームではある。しかしクリアの喜びは知らないまま…。モチベーションが維持できなかった。

山形 物語もシステムも優しい作りで理解しやすかった。子供ながらに『やさしいつくりだなあ』って思ってた。

齋藤 高橋源一郎が、全く同じことを言っていたんだよ。『ドラクエⅢは完璧さを身につけるために、ドラクエⅡの過剰さを放棄した』って。わたしはその完璧な物語にうっとりして、ドラクエⅢは朝の9時から夜の9時までずっとこたつでプレイするくらい大好きだったんだけど。

山形 でも堀井雄二は本当に尊敬しているよ。僕にとって《クロノトリガー》は3本の指に入るほどの思い入れのあるゲームです。でも、どうしてもドラクエだけは合わなかったんです。堀井雄二がドラクエの開発エピソードを語った際、ドラクエは誰にでも分かるようなゲームにしたかったと言っていて、分かりやすさを開発の根幹に置いたそうなんです。もしかするとそれが窮屈に思ったのかもしれません。おそらくドラクエを経験するより先にFFの方を経験していたのも大きかったのだと思います。

齋藤 FFのいわゆる人気タイトルって、ⅦとかⅨとかⅩとかが取りざたされることが多いと思うんだけど。お二人が好きなタイトルは?

山形 僕はⅧ。次にⅥです。悠くんは?

山本 僕はⅡです。Ⅱは面白いんです。だいたいね、戦闘毎に全回復するんですよ。そしてなぜか敵ではなく仲間を攻撃して瀕死に追いやってから戦闘を終了すると最大HPが上がっているので…毎回…

齋藤 へえ〜!



山形 ⅡにはRPG特有のレベルシステムがなくて、ステータスアップがどんな戦闘行動をしたかによって決まるんです。魔法を使えば魔法能力が上昇して、より魔法使いに特化したステータスになる。さっき悠くんが言ったようにHPが減るとHPの最大値が上昇する。だから仲間同士の殴り合いでも上昇してしまう。

山本 いわゆるジョブ、職業はない。剣を使い続ければいつか剣士になれる。

山形 システムデザイナーはそんなプレイをされるだなんて思わなかったそうで、「どうやら巷では仲間同士で殴り合うことが流行っているらしい」と知って驚いたそうです。実際このシステムは敵のゾンビータイプにケアルをしてダメージを与えるという案から採用されたものだそうです。

山本 プレイヤーがまさかそんなことをするだなんて思いもしなかったんだね。まほうのほん装備の裏技も楽しかった。『なんでも装備できるんだ!』という感動があった。Ⅱをやっていた時は何を遊んでいたのかよくわからなかったんだけど。でも僕にとってのFFといったらⅡ。音楽もⅡのが流れてしまうな。


山形 こう考えてみると、Ⅱは後のFFに大きく影響を与えた規範となったんだね。


キャラクターの瞬き


山形 坂口博信は大学生のときにバイトとしてスクウェアのゲーム制作に携わっていて、そのときに作っていたゲームが「鳥人間コンテスト」のゲームだったらしい。けど当時のスクウェアはやばくて、許諾を得ないまま制作していたからプロジェクトが解散になっちゃった。そこから坂口は《ザ・デストラップ》というゲーム作品でデビューした。パッケージイラストはいのまたむつみを起用している。



山本 色々とすごいね。

山形 この段階からすでにキャラクターと物語に対する考えが伺えるゲームなんだよ。次作の《ウィル デス・トラップ2》では今後におけるスクウェアの根底すら既に示唆していて、少女の絵がタイトル画面に映し出されているのだけれど、当時はアニメーションがまだ困難な時代だった。このタイトル画面ではそれを上手く掻い潜る形でアニメーションを可能にしている。この少女がただ瞬きをするだけなのだけれど、当時はこれだけでも衝撃だったそうなんです。『動いている!』って。

ゲームにおける「瞬き」は面白くて、今日でもゲームにおけるキャラクターのアニメーション表現として用いられている。《逆転裁判》とかが特に分かりやすい。静止したままのキャラクターは、そのままでは画面内での生存を示せない。それを繋ぎ止める方法がゲームにおいても「瞬き」だった。だから、こちらの選択肢の「はい」「いいえ」の決断を待っている最中にも、彼らはずっと瞬きをし続けている。単に目の画像差し替えのみでそういったことを示せた。

話を戻すと、有名な話しだけれどスクウェアはファミコンでRPGなんて作れないと思っていたそうです。今では「ふっかつのじゅもん」が普通のものとしてあるけど、当時ファミコンはセーブは出来ないという認識が強かった。だからドラゴンクエストが発売された時は衝撃だったそうです。そこから、ファミコンでもRPGは作れると思い、FFの開発がスタートした。それ以降のスクウェアのストーリーはゲームブログとかで腐るほどあるので見てみてるとすごく面白いよ。

山形 (ここでドラクエとFF年表をみせる)

齋藤 FFが発売されたのはドラクエの翌年なんだ。

山形 順番でみていくとお互いリレーのように追いかけあってるのが理解できる。けど、ドラクエⅢで一度スクウェアは沈んじゃう。坂口もドラクエⅢには本当にびっくりしたらしい。そのあとFFⅢが発売されるのだけど、当時で一番売れたんです。そしてⅣが出て、ここからスクウェアの勢いが強まる。そして、PSでFFⅦがくる。97年。このFFⅦによって、ゲームの歴史は変わったと言ってもいいですよね。その後のPSと64のハード競争にまで影響を及ぼしたとも言える。



山本 決定的だったよね。Ⅶ以降はカルチャー感を帯びてきた。

山形 坂口がFFⅦをPSから発売した理由として、やはり映像に対する明確な欲求があった。それは64などのカセットでは出来ない。美しい映像と美しい音楽には容量がいる。それにはDISCじゃなければだめだったと言っているんです。スクウェアのゲーム制作の根底には、常に美しい映像と音楽があった。



FFⅢにおけるキャラクターの交換可能性


齋藤 FFⅢはどう思う?

山形 FFⅢはとにかくジョブシステムを作った功績が大きい。これはドラクエⅢを受けてのものというのは自明だよね。悠君はわかると思うけど、前作であるFFⅡには物語が主軸にあった。また、チョコボやクリスタルなど後にも引き継ぐ諸要素はⅡから始まった。また、FFⅠにはキャラクターに名前がなかった。けれどⅡには名前があった。

山本 フリオニール。

山形 そう、フリオニール。けど、Ⅲではまた名前がなくなってしまった。それにより、またキャラクターの交換可能性がでてしまった。そしてジョブシステムがよりそれを過剰にさせている。

山本 システム寄りになったんだよね。で、分かりやすくFFⅣではまた個性豊かな仲間たちと一緒に旅をする。しかも月にまで行ったりする。月に行くだなんて…最高!

山形 そういう意味ではFFⅡと同じようにFFⅣもたくさんキャラクターが死ぬよね。どんどん出てどんどん死ぬ。ベルトコンベア式。ドラクエは基本的な大枠や物語の姿勢は踏襲したまま物語が続く。FFⅣはそういった意味では裏切りの物語とも言えるかもしれない。



齋藤 カインとかね。聖書のカインから名付けられたんだろうけど、当時はすぐ逃げるやつとか、裏切り者の代名詞になっていた。『一緒に遊びに行こうって言ったのに来なかった、カインだ』みたいに。

山形 カインは特に有名だよね。ヤンも裏切っている。裏切るというよりはゴルベーザによって操られているだけなんだけれど、それはカインも同じ。FFⅣはそういった本来仲間であったキャラクターが敵として立ちふさがるというイベントが本当に多く、安心ができない。いつ裏切られ、いつ死なれるか。その安心のなさは新しく採用されたATBにも通じるものがある。

山本 この仲間きっとそろそろ抜けるから装備品全部没収しておこう…。

山形 FFはRPGにおける物語内法則をカウンターとして扱う事が規範になっている。もともとFFが誕生した経緯がドラクエが先立ち、そのカウンターとして制作されたから当然とも言えるね。

山本 FFⅣで竜騎士とかモンクとか吟遊詩人とか、ステータス画面に職業が書かれていて、個性豊かだった。けどFFⅤにいくと、なりたいときに竜騎士になれちゃう。まあまあ、それもいいかって思っちゃう。

山形 ⅢとⅣでFFも数字が出せてRPGに「FF」という概念が確実に出来始めた。FFⅤにおけるジョブシステムを中心とする固有名詞たちは、そういったFFの物語内で生成した資産を過剰運用する形で構築されている。システムやFFに纏わる常識的ともいえるようなもの–––––黒魔法や青魔法、ステータス異常や召喚獣など––––––FFという世界に関係する常識的事物があまりに密接になっている。けれどシステム面に特化したぶん、FFⅢと同じ問題が起きていて、物語が軽薄でキャラクターも没個性的で交換可能になっている。FFⅤは地味にマルチエンディングだったりするのだけれど、その内容も差はほぼない。



山本 バッツの悩みなんてどうでもいいからね。そんなことより早く青魔法を集めたい。青魔法を集めるのが本当に楽しかった。召喚獣もそうだし、何かを集めることが楽しかった。そしてFFⅤはギルがあまる。

山形 後のやりこみ要素を想定した作りとも言えるよね。FFⅤは縛りプレイなど特殊なプレイもとても盛んに行われていて、つっこんだ話しをするならば、パイディア(Paidia) を加速させる作りにもなっているね。「すっぴん」とか上手い作りだなあと関心する。


自分の内にキャラクターが住みつく




山形 悠くんはFFⅥはクリアしてない?

山本 してない。魔大陸で止まってしまった。

山形 たしかにそこは難しい!雑魚キャラを含め敵がみんな強いよね。アルテマウェポンも本当に強い。

齋藤 FFⅥはレベル上げをしなくてもうっかり先に行けてしまうから詰まりがちかも。

山形 FFⅥは仲間が本当に多くて楽しい。全部で14人もいる!ゆうれい、バナン、レオ将軍とか含めるともっといることになる。FF史においても、初めてパーティ内と外というシステムが生まれたナンバーだよね。それまではパーティ選択は常に固定・自動で行われていたけれど、自分でパーティーメンバーを組むことが出来るようになった。

山本 FFⅣやⅤの時はキャラクターを自ら選ぶ必要が無かったよね。

山形 4人という人数枠は基本のままだけれど、4人パーティを3組作ってダンジョンを進んでいったりだとか、多人数パーティを活かしたシステムが多くある。同時に今まで通り、パーティ離脱も頻繁に起きるようになっていて、FFⅣとは違った形で離脱に意味が出来ている。FFⅥで有名な世界崩壊後や、レテ川以降の分岐だとか、それぞれの仲間を個々に攻略していくことで、物語を拓いていく作りになっている。全キャラクターに個々の設定がきちんと備わっていて、FFⅤにおける交換可能性を否定した作りとも言えるね。プレイ開始時はティナを主人公として操作をするけれど、物語がある程度進めば別にティナをパーティに入れなくてもいいし、ティナが居なくてもクリアできる。つまりは公式の設定でもあるように、全員が主人公としての構成になっている。これはつまり、誰も主人公ではないとも言えるね。

山本 ワーッパパパパ!

齋藤山形

山本 ケフカ・・・。

齋藤 仲間意識が高まると同時になかなかパーティーに入れることのない仲間に対して申し訳ないなって気持ちにもなる。セッツァーとか全然使わなかった。

山形 その「申し訳ないな」と思ってしまうのは僕もそう。FFⅥはキャラクターの存在に物語が呼応しているような作りになっているからだろうね。確固とした世界設定や物語の上でキャラクターがいる…というよりも、確固たるキャラのもとに物語が降り注いでくるような感じだ。だからそれぞれのキャラクターひとりひとりに固有の物語がしっかりと用意されている。

僕はガウやゴゴ、ウーマロを好んで使っていたのだけれど、その3人は他のキャラに用意されたイベントや物語と比べると乏しいキャラです。けれどそれを補うまでの特殊な戦闘システムがあって、ガウは一度「あばれる」を選択したら自動操作、ウーマロに至っては一切として操作ができない。そしてゴゴは「ものまね」で他のキャラクターの行動に依存する。そういった豊かさがある。

齋藤 わあ、彼らはあんまり使わなかったな。山形くんの言う通り物語が乏しいキャラだから。逆に祖父と孫の関係性があるストラゴスとリルムとか、物語性のあるキャラを使って満足してた。

山形 キャラクターそれぞれの設定が明確だから、自分の内に迷いなくキャラクターが住みついてくれる。これらキャラクターへの「好み」においても能動的なパーティ選択が出来るようになったシステムの影響が強いでしょう。『マッシュを入れるならエドガーも入れよう』とか、『セリスとロックは常にセットで』とかってなる。よりキャラクターへの気持ちを増幅させるような構造です。それはFFⅨでまた違う形で引き継がれていると思うな。スタイナーとビビとかね。

FFⅥの物語とはキャラクターたちの過去を知っていくことでもあるんです。むしろそれによってのみ物語が進行していく。通常RPGや物語というのはキャラクターが成長していく過程を基本としているけれど、FFⅥは大半のキャラが大方の成長を既に終えていて、プレイヤーはそのキャラの過去を知ることによってその過程を補完するような作りになっている。過去ログ物語。明確な主人公がいないのもあって、パーティ全体を見守っていくような側面があります。さきほど話したような、プレイヤーが依代にする一つのキャラクターが居ないからですね。

齋藤 確かに、みんな何かを失っている人物ばかりが揃っている。

山形 FFⅥでスクウェアはキャラクター性をどう担保するか、どう増幅させていくか…ということを理解したんでしょう。「きかい」や「あばれる」といった固有アビリティを各キャラに用意させ、同時に魔導アーマーという軍事兵器にキャラを乗せ、逆に戦闘行動を統一させたりもする。そして対極にあるゴゴという持たざるものが居る。FFⅤと並列してみるとやはりそこには人物への扱いにとても大きな差がある。キャラクター重視の波をひしひしと感じさせる流れです。それはドラクエⅣもそうです。だからFFⅥ以降からはそういった交換可能性というものは希釈されはじめ、FFⅦならリミット、FFⅨは固有アビリティなど、キャラクターの個は引き継がれていきます。とは言っても、ステータス数値や戦闘行動においては最終的には皆同じに収斂してしまいます。FFⅩのスフィア盤なんかはとくに顕著ですよね。それにしてもキマリは弱かった…。あれはロンゾの恥って言われちゃう。

ガーネットをガーネット




山形 FFⅨでは、悠君もたしかガーネットをガーネットにしてたでしょう?

山本 した…。

齋藤 ガーネットをガーネット?

山形 ヒロインのガーネットというキャラクターがいて、物語を進めていくと彼女の名前を変更するイベントが発生するんです。彼女はガーネットという宝石の名前からも分かるように、お姫様なんです。そして、今までのそういった自分と決別するために、最も対岸にあるような名前を彼女は選ぶんです。それがダガー。ダガーという名前にしちゃうんです。そして彼女の名前変更画面の初期設定欄が、見事に「ダガー」になっているんです!売値、320ギルだぞ…。

山本 え!? ガーネットが!? なんでダガーに!?!?

DV6cBVFV4AACIs- ダガー

山形 だから僕は☓ボタンを3回押して名前欄をきれいにした後、また「ガーネット」と名前を入れ直したという思い出があるんです。で、物語では「よし、これからはおまえはガーネットだ!」みたいになる。それで僕は、本当によかった…と安堵してゲームを再開する。このガーネットをガーネットにする現象が、どうやら皆 結構やっているらしいということが最近分かったのです。まず悠くんがそうだった。

山本 僕はまず、その画面を観て固まった。で、夕方だったんですよその時。

齋藤 よく覚えているね!

山本 『ごはんできたわよー』って。夕飯ができちゃったんです。ああ、名前入力しなきゃ、でもご飯食べてからにしよう…って、つけっぱなしにして下に降りた。それでご飯食べ終わってお皿片付けて自分の部屋に上がってきて、画面を観たら、まだ「ダガー」だった…。

山形 そして–––––––––––

山本 ピュインピュインピュイン・・・・・・「ガーネット」!

山本 そういえば名前入力に「おまかせ」ってあったよね。《聖剣伝説》のおまかせが楽しかった。ものすごい奥の深い名前も出てきた。名前に漢字を使用することもできるようになっていたね。プレステにもなると解像度が高くなるから。FFⅤとかⅥでは、限られた漢字だけをぎりぎり使えてた。

山形 ロマサガに至っては漢字だけフォントサイズを大きくして表示させてたよね。

そして映画へ




山形 映画のファイナルファンタジーのこと話しとこっか。

山本 あの黒歴史。

山形 そう、5000万ドル以上の赤字が出てしまって、スクウェアが経営難になったのは有名な話。当時の僕は小学生だったのだけれど、その時の将来の夢がスクウェアに入社することだったから、ニュースでスクウェアが無くなると聞いてショックだった。まさか自分の夢がこんなにも早く途切れるなんて…。でも結果としてエニックスと合併して、それはそれでいいのかなと当時は思った。むしろ、ドラクエとFFという最強のRPG制作会社が組み合わさって、スクウェアのこれからが楽しみだなと興奮したな。そしたらⅩ-2ができちゃった。

山本 あれはショックだった。

山形 FFⅩ-2は初のナンバリング続編です。FFⅩは250万本売れており、PS2の中ではトップクラスの売上だった。でもスクウェアはそういった売上に反して経営は常に厳しかったそうです。というのも映像技術に傾倒しすぎた結果、開発費用が毎回めちゃくちゃかかってしまっていた。普通のゲームソフトの開発と比べるとかなり多い額だそうです。

山本 映画製作みたいになっていたんだね。

山形 Ⅹ-2は再度ジョブシステムを採用していて、Ⅹのヒロインであるユウナが主人公の物語です。パーティーは3人固定で、全員女性。リュックとパインというキャラクターで…既に察していると思うのですが、完全なるキャラゲーなんです。もっと言うならセクシーゲームなんです。今までのジョブシステムにはなかった、戦闘中にもジョブチェンジが可能になり、戦闘中にジョブチェンジをすると、お着替えムービーが流れるんです。

齋藤 え・・・。

山形 本当に、セーラームーンのようにドレスアップムービーが流れます。ユウナが、セーラームーンの如く、くるくるキラキラ回転して変身しちゃうんです。しかもムービーで。そして、当時のインターネットコミュニティで乱立しまくった魔法の言葉があります。知っていますか?「みやぶるLv3」というのですが…。「みやぶる」とは所謂ライブラのことです。

齋藤 ライブラね。相手のステータス状況が見れるやつ。

山形 そう。で、Ⅹ-2は技名の後のレベル数値によってその効果が変化するんです。まず、みやぶるLv1が「敵の情報をみる」なんです。普通のライブラですね。で、Lv2が「敵の情報と、敵のグラフィックを360度回転・ズームで観賞できる」になるんです。

山本 おい!

山形 うん…Lv3は「仲間にも使える」なんです。敢えてこれ以上言いますか?言いますけど、もう、ズームし放題、回転し放題、見放題なんです。

山本 抜きゲーだった…。

山形 ジョブシステムとか、戦闘システムやグラフィックはスクウェアだからしっかり作られています。けど、そういった要素や、物語は、お世辞にも良いとは言えません。当時は愚弄された気持ちでした。今までのFFは、もう無いんだと子供ながらに理解しました。そんな感じだから発売して1ヶ月後にはすぐにワゴンゲームの代表になり、どのゲームショップにいっても、FFⅩ-2が投げ売りされている。

齋藤 それは悲しい。

山形 当時の僕は相当ショックだったんでしょうね。それ以降FFの新作を一切しなくなってしまいました。

山本 もう今じゃ開発室とかなくなっちゃったのかな。透明な壁とか抜けると、スタッフルームがあって、スタッフとお話できたり戦闘できたりしたよね。

山形 あったね。ポケモンでいうタマムシデパート裏の雑居ビルみたいなね。

山本 Ⅹ-2では無いだろうし、できないだろうね。どのツラ下げてキャラクターたちにお前ら発言できるんだと。おい!

山形 FFⅩⅤってたしかパッケージ版を買うとスタッフからの寄せ書きがついてくるんだよね。

山本 握手できるゲーム会社?

山形 スクエニ内でFFの同人制作をやっているような感じなんだと思う。ディシディアとかは実際同人ゲームだ。FFのナンバリングだけ続いていく。

齋藤 おお…ネットでもかなり話題になりました。


山形 もう文化祭だ。スクエニの社長が3DCGキャラクターになってノクティスと戦うとか。完全に内輪ノリをこれでもかと放出している。スクエニ以降はゲーム外…つまり物語外での出来事がどんどん喧しくなっていっている気がするね。これもソーシャルゲーム以降としての影響………いや関係ないわ。この話はもうやめよう、はい!やめやめ!

齋藤 ちなみにFFの映画では、2016年にCGアニメ「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」が劇場公開されて雪辱を果たしたと言われていますね。



■ゲームと記憶

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齋藤 ところで、なんでふたりともゲームのことになるとそんなに記憶がはっきりしているんですかね。

山形 たぶんゲームというものは記憶のヒモ付けとしての力を他のメディアより強く持っているんでしょう。その時には気づかずとも、後になってそのゲームを思い返すとその時の記憶、ゲームプレイ時の外側…つまり自分がどんな場所で何を思ってプレイしていたかとか、記憶をより定着されていることに気づきます。より強固な記憶となっている。経験したゲームを再度やったり思い返すと当時の自身の出来事を思い出せます。

そういった事は、ゲームのサウンドトラックが特に考え易い。ゲームを経験せず、単なるサウンドトラック…つまり音楽として経験すると『良い音楽だな〜』とか、通常の音楽の観賞体験と違いはありません。けれどゲームの経験を通した上でそのゲームのサウンドトラックを再生するとそうはいかないわけです。感動せずにはいられないはずで、しかもその感動とは結構な深度があって、映画などの観賞体験からくる感動とは異なります。敢えて言いますけど、魂が震えるとすら思います。

うーん、感動という抽象的な事から話すと難しいな。つまり、その物語の一部始終やキャラクターの振る舞いやセリフ、戦闘シーンなどが一斉に、増幅された形で呼び起こされ、再生される。それは映画のサウンドトラックともやはり違くて、ゲーム経験特有の事象なんです。太田光と糸井重里の対談で面白いことを言っていて、ゲームと映画の違いを話している。映画は一緒にみれるけれど常に一人で観賞が行われ、作品と一対一の関係になっている。そこに会話はない。しかしゲームでは一対一もあれば複数人との関係もあり、会話も交えながら観賞が出来る。そしてゲームはいつ中断しても良ければ、いつでも再開できる。おかしを食べたり料理をしたり…。それがとっても楽しいんだと太田は言っている。

山本 それがすべてかもね。つまり、『ご飯ができたわよー』って呼ばれる。その境界的な瞬間を覚えている。

山形 ゲームはいつでも中断できます。むしろそう考えるよりは「こちらをずっと待っていてくれる」といった方が正しい気もします。ゲームプレイを引き伸ばし続けているんです。ゲームが僕らのことを待っているからご飯も楽しく、僕らも中断した時のままゲームを再開できると知っているからこそ、ご飯に赴くことが出来る。その際にも、『ガーネットの名前どうしよう…』とか、ゲームプレイを引き伸ばしたままご飯を食べれる。さきほどの記憶の増幅関係の話はそこが根底にあると思います。ゲーム外の時間もゲームプレイをしていると言えます。

山本 指の動きだけになってはいるけれど、内面は増幅されているわけだね。だから一緒にゲームをやっていて、例えば、山形くんがアイテムを全部とっていくのを見たら、『こいつアイテムばっかとりやがって、がめついな』と思う人もいるし、『わかる〜』ってなる人もいる。

山形 他の人や友人が同じRPGゲームをやっていても、『これはクラウドだけれど、”僕の”クラウドじゃない』ってなると思うのです。それは友人が自分よりも先の物語を進めているのを観ると前景化して理解できるはずです。変な体験として立ち上がる。

山本 すごい不思議な感じがするよね。

山形 同じだが、違う。その経験もおそらくゲーム特有のもので、映画やアニメとかではそうはならない。ゲームを語る上で問題になるのが、例え話とか他に代入して語ることがとても難しいという問題があるんです。経験に根ざしすぎているのと、今まで話したようにプレイヤーによって経験の値も大きく変わってくるからなんでしょうね。

■ゲームと幸福


齋藤 私、どうやったら人は幸福と思えるのかっていう研究をしていた。

山形 突然どうしたの・・・・・・・・

齋藤 あはは、小さいときって毎日が楽しいじゃない。小学生のときとか。でも大人になるにつれてどんどん楽しくなくなってくる。なぜだろうと思って、子供のテンションが高いように、大人もあのぐらいのテンションで毎日生きていくことはできないんだろうか?どうやったらそういう状態になれるのか、ゲームにその鍵はないのか。

山形 幸せという概念がまず困難だけど、僕は全然、ありそうだなって思う。子供の頃という部分に重きを置いて話すなら、例えば友人とゲームとかしてしまうと、完全に幼少期の心を取り戻してしまうところあります。すごい大きな声出しちゃう。僕らの世代とかだと、スマブラとかあまりに顕著だよね。

齋藤 ゲームをやっている時は幸せ?

山形 幸せだけれど、子供の頃と比べると、やはりそこまでの多幸感はない。

山本 そうだね。

山形 今は邪念や悩みが脳裏に入ってきてしまう。『時間がなくなる』とか『こんなことしてていいのか』とか・・・。現実での問題をすごく気にしてしまう。それが、子供の頃にはなかった、ゲームをしている時の大きな違いですし、悩みです。それでも、ゲームを行っていて没入している一時は他には無い、かけがえのない時間ですよね。今でもそれは変わらない。

齋藤 私も、iPadでFFⅥやっていた時はすごい幸せだった。携帯ゲームだと、日常とシームレスにゲームの世界に入れるのがすごくいい。混んだ電車に乗っていても、つらい打ち合わせがあっても、「あの苦しみのない世界にすぐ入れるんだ」って思うことが救いを与えてくれる。

山本 ゲームをやっていて幸せに思うのは確か。なんでだろう

齋藤 「幸せな未来は『ゲーム』が創る」って本がありまして、それによるとビデオゲームは人間が有史以来作ってきた中で、脳内の成功報酬の効率が良いんだって。課題と解決のようなことで人間の脳内麻薬(エンドルフィン)が出るけれど、ブロック崩しなんて、画面の上の点をひとつ崩すだけでそのエンドルフィンが出るんだから。

山形 RPGもそう考えると、敵を倒したらお金を貰えてそれで更に新しい武器が買えて次の街に行けたりとか、明快すぎるほどはっきりしているね。

山本 ゲームの話って、本当に広がるよね。ただし「ビデオゲーム」にこだわりたい気持ちがある。スポーツとかもゲームだから、というようなことではなくて。

齋藤 テニスをするには、テニスコートを予約して、そこまで行って、着替えて…という過程が必要になってくるけど、ゲームは自分の手の中とか自宅で出来ることが可能性を広げてくれる。人間って眼で見ることが好きで、目から入る情報の幸福度ってすごく高いんだと思う。

山本 そのはず。

山形 その理論をゲームで進めていくとスクウェアの問題になるよね。

山本 そうか、一番誠実にそれをやってきた。

山形 そう。つまりどんどん映像技術に傾倒していくわけですよね。坂口が『64じゃ望んでいるグラフィックが出せない』といってPSに移行したように、彼の考えはもっと美しい映像と音楽に尽きる。そこで彼は、その2つを突き詰めていったら最終的に必ず映画と対峙することになると理解していたんです。『だからFFが先に進むためにはまず映画を作らなければいけない』と言っていたんです。それで見事に映画は駄目だったわけだけれど、考えとしては大変実直で理解できるものです。

けれど彼はプレイヤーの経験、つまりはゲーム外時間を外して考えてしまっていたんです。彼の考えにおいては映像・音楽・物語の三つが重要な要素としてあって、それがスクウェアのゲームの根幹でもあった。けれど僕らには、今まで話してきたようにそれ以外にもあったわけですよね。友達とのゲームだとか、『ご飯できたよ』とか、「はい、いいえ」の選択や、アイテムをとるとか…、彼はゲーム内外行為を除外して考えてしまっていた。むしろそれら要素があってはじめてゲームというものは映画を凌駕しうるメディアと物語を構築できるはず。だからそういった意味で考えると映画制作は惜しかった。でも、当時であの映像を日本のゲーム会社がやったということにおいては本当に偉業と思う。だってゲーム会社が映画を作ったんだもん。それに関しては素晴らしいことだよね。


ゲームと自由


山本 久々にファミコンのウルティマのことを思い出したよ。やっていることはスカイリムの時代になっても変わらないのかもしれない。魔法を使う為に薬草屋さんで買いものをするんだけど、店員さんは眼が見えない。全世界どの町の薬草屋さんもみんな。たぶん世界観として、眼の見えない人が、この職業に就くということなんだと思うんだけれど。ほしい薬草を選んで、会計しようとすると、お店の人にね、たとえば『55Gです』って言われる。今度はピュィっと入力画面がひらく。いくら払うか選ぶことができる。55G払うべき。そうすれば徳が積まれる。勇気、優しさ、誠実さなどの徳を兼ね備えた人物になるってことが、ウルティマの目的だから。なんだけれど、55G払っても、単に『ありがとうございました』って言われるだけ。50G払っても同じ。行動を求められている。主人公がぼくの代わりに喋ったりしなくてもよい。キャラクターの性格はない。むしろ自分の行動がそいつの性格になるわけだから。

山形 それがまさに海外のゲームデザインの姿勢だよね。

山本 ちなみにあんまり安すぎる金額を払おうとすると、ショックなセリフが聞ける。『おかねのおとをきかせて!』。

齋藤山形 へ~〜〜!

山本 サブクエストがたくさんある。ファミコンのころからサブクエストばかりやっている人生だった…

山形 そういう自由を歌うシステムは日本では《ロマンシング サ・ガ》とかになるんだろうね。スクウェアはそのあたりをきちんと理解してた。坂口はマッキントッシュで《ウィザードリイ》にハマったことがきっかけでゲーム制作の世界にきたから、もともと海外のそういったRPGに影響は受けていたんだよね。FFやRPGが初期の段階から言われていた批判として、『ただボタンをぽちぽち押してセリフを読むだけで、ゲームをやっている気がしない』っていうのがあった。だからファイナルファンタジー外伝として聖剣が生まれた。

齋藤 ロマサガは逆にそうやって自由で分岐どんどんしていくから、物語そのものは薄まったと思った。

山本 だから実を言うとFFが一番過激なんだよね。FFやってサガとかやるとサガすごい!ってなるのだけれど、それは日本で育ってそういうゲームをやったから思うことである。

山形 うん、FFはやはり過激に作られている。物語も一本道で、主人公も過剰なまでに設定されて、むしろプレイヤーの入る余地のほうが用意されていない。制作の方法が基本的に足し算で行われ続けている。同時に戦闘システムも過激で、9999というカンストを叩き出せる。このRPG特有のダメージカンストも、FFの過激さが助長している。FF8や10になると、ダメージ限界突破なんていうシステムまであるし、超究武神覇斬とかエンドオブハートとか後半の必殺技になると、9999が10回以上出たりするし、今となっては意識されてその過剰さを扱っている。

山本 キャラクターを作り上げて、信じる力が日本人には強い。ゼルダの伝説をやっていても、リンクがどんな性格かとかどんなやつかとかどうでもいいもんね。リンクの人生とかほんとどうでもいい。

ゲームの終わり


山形 ドラクエでゲームオーバーをしたら「あなたはしにました」っていうメッセージがでるよね。これは操作キャラクターを貫いてプレイヤーである僕らに「死にました」と言っているのだけれど、自己の生死に関しては普通僕らは語れないんだよね。『いま悠くんは死んだ』とは言えるけど、『いま僕は死んだ』とは絶対に言えない。死は常に自分以外のところにある。同時に僕らは生き始めたことも理解できないし、死ぬことも理解できないままこの世を去る。でもゲームにおいてはそれが出来る。名付けをして生を与えて、ゲームオーバーによって死んで、更にそれを自分によって看取ることができてしまう。だからこそ、僕がゲームにおいて一番打ち震える瞬間というのは他でもないEND画面です。ゲームクリアをすると、スタッフロールの後にENDと大きく表示され、その後は一切としてコントローラーの操作を受け付けなくなるものがあります。

山本 あれやばいよねえ・・・

山形 はじめてその画面経験をしたとき、10分以上はその画面の前で待ってしまうと思うんです。消すことは出来ない。

山本 つけておいて、見ておきたいというわけじゃあないんだよね。

山形 単純に、そこには困惑が大きく支配していると思うんです。僕はあの画面と出会う度、毎回『あっ・・・』となってしまう。終わったら自分の手でハードウェアリセットを押す以外に無くなってしまう。

山本 そこで急にメタ的なことをしなきゃいけないんだね。

山形 方法は他にもあったはず。例えばタイトル画面に自動で戻るとか。それは今日のゲームでは大半が実装していて、更には二週目とか隠し要素を出現させて再度開始だとか、いろいろあるけれど、当初のゲーム…ことRPGにおいて出された決断は操作の凍結と永続的画面だった。消して再開すると、またラストダンジョンのラスボス手前のセーブポイントなわけで帰れなかったりする。もう終わりの道しか残されていない。

そういった流れで考えれば、やはりFFⅧはよく出来ているなと思います。FFⅧはシステムと内容がリンクしている部分があり、今まで無視されてきたキャラクターのレベルが上がり強くなることや、なぜ強大な敵と戦いが可能なのか、などが物語とシステム2つによって内包されています。FFⅧはキャラクターたちの心そのものは成長するのですが、戦闘などにおける「強さ」といった成長は無い物語なんです。ずっと彼らは人間としてのスケールで居続ける物語なんです。それがどれほど救いなのかを理解できるゲームと僕は考えています。

FFⅧはCMや表層のイメージとして恋愛物語が前景化したFFとして扱われることが多いのですが、それは単にキャッチーな部分というだけで、根底としてはどうでも良い部分です。映画において「これ以上はカメラ(鑑賞者)が登場人物を追う必要はもう無い」というところで物語の幕が降ろされるわけですが、FFⅧもそういった終わりを迎えます。登場人物たちがカメラである僕らから自立し、離れていきます。



山本 山形くんがⅧを絶賛している。

山形 あはは、僕はFFⅧ素晴らしいと思うから。時間なかったらYoutubeでストーリーを追うだけの動画もあるから見たらいいけど、それだと僕らが話したファイナルファンタジー(映画)の問題に収斂してしまうから、ゲーム観賞はやっぱり自分でプレイする他ないんだと思う。

齋藤 そうやって自分の手で進めていく主体性がビデオゲームならではの没入感につながっていくんだろうね。

山形 けれど実際、僕らは社会人で日常的に労働をしているわけで…やはり『時間は限られている』と考えてしまうわけです。僕らがこうやって90年代から2000年代くらいにかけてのテレビゲームを語ってきたわけだけれど、奇しくも今の日本においてプレイ人口が多いのってソーシャルゲームやスマホゲームと呼ばれるゲームですよね。それらは余暇としてのゲームデザインが顕著に行われていて、日常のちょっとした時間に刺してくるゲームデザインです。今までのテレビゲームのように、多くのプレイ時間を要求せず、電車や通勤の合間のちょっとした時間にプレイするのにぴったりなゲームです。それに準じてテクニカルな操作も外されていき、シンプルな操作と構造を持つゲームデザインが跋扈し始めた。
そういった流れに従い、スマホゲームは同時に「サービスとしてのゲーム」に変わりました。ゲーム内で行われる期間限定イベントを筆頭に、ゲームはあくまでサービスを提供するものとなり、ゲームそのものの物語の終わりは制作されないことになります。物語は永遠に続きます。今ではスマホゲームのRPGで『戦闘シーンは放置するだけでレベルアップ。放置の間に物語を読める。』といったものまで流行り始めています。それらが収斂していく先は、やはり「ごはんできたわよ」無きゲーム体験です。ゲームとプレイヤーの物語は無くなってゆきます。

齋藤 さっき山形くんが言っていた太田光と糸井重里の対談で言われていたことが起こっている。他の人と共有できていたゲームが、スマホゲームでは個人のものに戻ってしまう。


山形 一概にスマホゲーム批判になってはいけないなといつも考えるのですが、こう話してみると僕も古い人間なのだなと痛感します。とことん作品主義の人間なんだなと…。ゲームというメディアは、敢えて時間をかけて観賞するように出来ており、同時にそれは作品でもある為、きちんと物語の終わりを迎えるべきだと思っている…。けれど、ゲームのクリア後って本当に心に穴がぽっかり空いた気持ちになって、すごく寂しく、辛くなる。クリアをしたその日は何も手がつかなくなって、ずっとクリアしたゲームの画像検索をし続けたりする。つまり、本当はゲームには終わって欲しくないって思っているんです。ずっとクロノたちと冒険がしたい。まだまだ先があるんじゃないか、敵がいるんじゃないかと願っている。

けど、それはやっぱり駄目なんですね。終わりなければ感動もなくて、そのゲームのサウンドトラックを聴いても魂は震えないわけです。心に爪痕は残せない。終わりなき事は忘却に収斂するしかないんです。だから、きちんと一つの作品として、一つの物語としてゲームを操作して、僕らは終わらせるしか無いんですね。

<次回に続く>

Adobe Senseiとは何者かーアシスタントはもういらない

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一万人以上が参加する、国際的なクリエイティブ・カンファレンス「Adobe MAX2016」がただいまサンディエゴで開催中。

昨日行われた基調講演で、最も大きな話題になったのがAdobeの新しい取り組み「Adobe Sensei」のアナウンス。AIとディープラーニングを使うことで、PhotoshopやIllustratorなどを使ったデザインの効率性の向上、さらにWebのトラッキングのようなマーケティングまでも次世代にしちゃいますよというフレームワークのこと。フレームワークとはアプリケーションを作る際の土台になるソフトウェアのことで、つまりAdobeのPhotoshopやIllustratorといった製品にこのシステムが既に使われており、このたび「Sensei」という名前で発表されたということらしい。

ディープラーニングで肝となるのがデータの量。Adobeの強みは、莫大なデータの蓄積があること。ソフトウェアがクラウドによって提供される「クリエイティブ・クラウド」になったのが5年前のこと。以来蓄積した高解像度のデータからユーザーがクリックしたところのデータまで、凄まじい量のクリエイティブに関するデータがある。

それらのデータによって可能になるのは、例えば

・ストックフォトサービス「Adobe Stock」に写真をアップすると、写真を解析して”海””女性”のようなタグ付けを自動でしてくれる
・Photoshopでサンプル画像を読み込んだ時に、似た構図のストックフォトを探してきてくれる
・顔の構造を認識して、おでこのシワをスムージングしてくれる
・動画編集ソフト「Premiere Pro」上で動画を分析し、インタビュー映像で不要な部分(あー、とかえー、とか)を削除してくれる
・紙のドキュメントを電子化した際に正しいフォントにしてくれる

などなど。

dscf0887 こちらが「Adobe Sensei」の名付け親でPR責任者、Daniel Berthiaumb(ダン・バーシオーム)さん。「どうしてSenseiと名付けたんですか」と聞いたところ、

「アメリカで「Sensei」というと、みんなが思い浮かべるのは映画「ベスト・キッド」に出てくる師匠のミヤギさんだと思う」

とのこと。Adobeのプロジェクトの名付け方法には遊び心があって、他にもハリー・ポッターに出てくる魔法の杖の「ニンバス」という開発中のプロジェクトもあるので、「Sensei」という名前にもそこまで深い理由はないんじゃないかと思っている。

最近のAdobe社のソフトウェア開発は、「機械が出来るところは機械にやらせて、人間はクリエイティビティに専念する環境を作る」という信念に基づいている。UI/UXのソフトウェア「Adobe XD」では、多くのページがあるWebなどのデザインのために、一つのページのボタンを変更すれば全てのページのボタンも変更される、というように、人間が煩わされる手間をとにかく省く努力がされている。機械ができることは、機械がやればいい。それによって、人間がもっとクリエイティブになり、よりよい世界が作れるのだと。

もしそんな次世代のクリエイティブの世界をお手軽に試したかったら、「Adobe Spark」を使ってみてほしい。インスタやTwitterにアップするためのいい感じのロゴを載せた画像や、フォトストーリー、ビデオなどがものすごく簡単に作れるツールだ。このツールにはいい感じの、ファッショナブルなテンプレートがいくつも用意されていて、説明に従って数ステップ進むだけで、”デザイン”されたイメージを作ることができる。昔あったワードアートがものすごくおしゃれになったような感じだ。

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インスタやTwitter、YouTubeなど、それぞれのサービスにあわせたサイズでレスポンシブにイメージを書き出してくれる。

img_2170 右側にあるのがテンプレート。スタイリッシュなサイトが一瞬で完成。

wlbz3-25358 素敵なポートフォリオサイトも一瞬。

こうして、テクノロジーの進化によってデザインが誰にでも出来る環境ができると、職を失う人が出てくるのでは?という疑念がいつも沸き起こる。だが、“作業”でなく“創作”だけに専念する環境ができることは、きっと人間の可能性をより広げてくれることになるだろう。誰もがアシスタントではなく、アートディレクターになるような、そんな世界がやってくるのかもしれない。




twitter名言集 2016年5月分

むかしTwitterのお気に入りを集めた名言集をやってて、
いま見ても面白いのでまたやることにしました。
昔はテキスト中心だったけど、いまは写真と動画中心だし、
何万リツイートみたいなのも珍しくなくなった。
「Twitterが面白くなくなった」というのは、
視覚メディア優先になってしまったこともあるんだろう。














































































マイグラミー賞2015

もう年度も終わりに近づいてますが、2015年のマイ・ベストミュージックを発表します。

■ベスト・アルバム
1.Kendrick Lamar「To Pimp a Butterfly」

あらゆるランキングで1位を取りまくっている2015年の本命盤。黒人たちがいかに抑圧されてきたか、その歴史をていねいに振り返り、ヒップホップ、ジャズ、ファンクの荘厳なサウンドスケープで重いテーマをエンタテインメントに表現した。

「Alright」のミュージックビデオでケンドリック・ラマーは空を飛んでいる。空を飛んでいるのは気持ちいいからとかではなくて、飛ぶ必然性があるからだ。彼はいまも黒人たちが受け続ける「抑圧」からの「開放」の象徴として空を飛ばなくてはならなかった。その背中に先人たちの英霊が乗っかっているのが見えるようである。空を飛ばなくてはならないほどの抑圧、あなたは感じたことがありますか。そして自由を謳歌する彼は命を奪われ、復活する。

音楽によって多額のお金を得たケンドリックは、またその音楽というツールを使って同胞たちが受けてきた抑圧に対する抵抗という意志をピュアに具現化した。そうした彼らの意思を、日本人であるわたしが本当の意味で理解できているとは思っていない。しかし言葉がわからないわたしにさえも、ケンドリックやその先人の“彼ら”の意思がこの黄色い身体の赤い血液にまで染みこんでくる。その説得力たるや。流通する音楽アルバムというフォーマットにここまで明確で強固な意志を込めることができたケンドリック氏に敬礼。


2.Zenker Brothers「Immersion」

肉体は魂の神聖な神殿だという。テクノはその神殿へと導いてくれる音楽だから尊いのである。わたしはずっと彼らのアルバムを待ち望んでいた。Zenker Brothersはその名の通りDarioとMarzoの兄弟によるユニット。ミュンヘンを拠点に活動している。ハード・ミニマルの2015年型のこの音がTresorから出たのは僥倖というしかない。マニュエル・ゲッチングからジェフ・ミルズ、ベン・シムズ、スティーヴ・ビックネル、オリバー・ホー、そしてやいまやPerfumeファンとして名を馳せるSURGEONらの敷いた道の先にあったのがこの音だと思っている。



3. The Internet「Ego Death」

リキッドルームでのライブはチケットがオークションで2万円になるくらい人気のLAのグループ、ザ・インターネット。Odd Futureのメンバーである92年生まれのシンガー/ソングライター、Syd tha KydとプロデューサーのMatt Martiansを中心としたバンドだ。これは3rdアルバムで、Kaytranadaらが参加している。2015年型のニューソウル/R&B、それは”オルタナティブR&B”というらしい。ジル・スコットとエリカ・バドゥが亡き(いるけど)いま、2015年型の性の匂いを取り去ったR&Bは最高にしっくり来る。インターネットで何もかもがスムーズになったこの時代における「クラブ行くのだるい」みたいな都会の倦怠を体現した、このうえなく美しいメロディと低いテンションとすべてを包み込むグルーヴ。これ以上他に何を望むことがあるだろうか。


4. SWINDLE「Peace, Love & Music」

いっぽうのSWINDLEは1987年生まれのロンドンのブラック・ミュージシャン。自らを「平和と愛と音楽の使者」と語る。その音楽性を一言でいうと「いかにもジャイルズ・ピーターソンが好きそうな音楽」で、彼は「ダブステップ」のアーティストだが、フルバンドを従えてツアーすることもある。このアルバムには彼がツアーでめぐった世界の都市をイメージした曲が16曲並んでいる。いずれもロンドン直送の混じりっけなしのダブステップでありジャズでありドラムンベースであるが、そのテクスチャは限りなく軽く、ポピュラリティがあるのが魅力的だ。下町で生まれるグライムの持つ重さはここにはない。ノリでウルトラとかに行っちゃうみたいなOLさんにも気に入ってもらえそうなハッピーなアルバムだ。そのバランス感覚に乾杯。お気に入りは「London To LA Ft. Ash Riser (LA)」と「Black Bird Ft. Joel Culpepper」。


5. John Tejada「Signs Under Test」

2013年がJon Hopkins “IMMUNITY”で2014年がBen Frost”Aurora”だとしたら2015年はJohn Tejadaのこれではないだろうか。いちめん雪に覆われた真っ白な平原に横たわってきらきら輝く太陽に目を細めているような、ロマンチックでメランコリーな叙情的テクノ。


6. Dawn Richard「Blackheart」

ケンドリックと同じラインにあるのが、ニューオリンズ出身の女性R&Bシンガー/ソングライター、ドーン・リチャードの新作。ブラック・ミュージックにアブストラクトな要素を加えたモダンな音楽性で、ファイトザ・パワーなソウルとトライバルな感覚を両立させ、前衛的な世界観を作り上げた。ケンドリックが現実を歌うなら彼女はPファンクやデトロイト・テクノが宇宙に向かったように、自らの内なるフィクションへと向かう。これは「Heart trilogy」という3部作の2作品目で、 “The Black Era.”に突入したという記念すべき作品なんだそうです。

7. Blanck Mass「Dumb Flesh」

ロンドン・オリンピックのセレモニーにも出た(イギリスはすごい国)ブリストルのエレクトロ・デュオ「Fuck Buttons」の片割れ、Blanck MassことBenjamin John Powerによる2枚目のソロアルバム。意図的なデータのスキップと重厚なサウンド、ボイスサンプル、808などを使い、ノイズとメロディによってインダストリアル・テクノやゴスのエクスタシーを持ち合わせたアルバムに仕上がっている。テーマは「人間の肉体の壊れやすさ」。わたしのお気に入りは2曲めの「Dead Format」。あなたの目の前に地獄の釜が現れ、その蓋がゆっくりと開いていくような楽曲である。

8. 星野源「YELLOW DANCER」

そしてぐるっと地球をまわり、アジア大陸へ。いっぽう日本に住んでいる星野源はブラックミュージックをこよなく愛する黄色人種。黄色人種がブラック・ミュージックをやろうとしたらどうすればいい?彼がたどり着いた答えがブラックミュージックのコアなプロダクションをJ-POPのフォーマットでやるということで、それが「YELLOW DANCER」ということだそうだ。彼は病気療養中、自分が音楽が出来ないので、「音楽を聴くと悔しくなるから」他人が作った音楽が聴けなかったという。それほどまでに音楽を愛する男が地獄から帰って作り出した、音楽の喜びがほとばしるアルバムである。そして日本全国のかわいいOLさんなど沢山の人にその喜びを伝播させることが出来たのは本当に素晴らしいことだ。わたしもこのアルバムに幸せな気持ちをたくさんもらった。「Down Town」とか、まるで星空に手を伸ばせばその星が掴めそうな気持ちにさせてくれる。

9. SAKANAMON 「あくたもくた」

こちら参照。

10. Airbird & Napolian「Mr. Foolish」

Oneohtrix Point NeverともコラボするAirbirdことJoel Fordと、OPNのレーベル「software」からリリースするミュージシャン、Napolian (AKA Ian Evans)のユニットによるアルバム。最初ジャケットがダサいのでおもいっきりスルーしていたのだが、収録曲の「Won’t Hurt」に目を見開かされ、自分が間違っていたことを知った。「西海岸の夢と東海岸の悪夢」をテーマにしたこのアルバムは、USハウスとコズミック・ファンク、ヒップホップのあいだを縦横無尽に駆け巡る作品である。LAからNYに飛ぶ飛行機がミズーリあたりに不時着して湖畔でリラックスしている感じというか、トロ・イ・モワとOPNを足した感じというか、とにかく至福の一枚であることは間違いない。

11. Outfit「slowness」

リバプールで2011年に結成し、その後ロンドンとニューヨークに離れ離れになってしまったというバンド「Outfit」のアルバム。いまメンバーはリバプール、ロンドン、ニューヨークの3都市に別れて活動しているそうだ。ジャンルはポスト・パンク。These New Puritansとかコールドプレイがサンディエゴで夜中の2時にカクテルを飲んでいるような音である。こういう音はどうして出来るのかと思う。何かが失われたことを強烈に寂しがっているような音だ。自分が失ったものについて静かに思いを馳せているような音。イギリスの人はナイーブというものをこうして音にできるのがすごい。

12. DJ Paypal「Sold Out」

毎年言ってるのがこうしたダンスミュージックにおいて「アルバム単位で聴ける」というのはすごいってことだ。Brainfeeder/Teklifeのアーティストであり、弟が「DJ Mastercard」という冗談みたいな名前の「DJ Paypal」は果たしてフットワークにフリージャズやソウルのエッセンスをふんだんにいれ、「聴ける」作品を見事に作ってのけた。「Ahhhhhhh」や「Awakening」とかヒット曲多数収録。

13. Carpainter「Out Of Resistance」

日本人は海外の要素を取り入れてアレンジするのが得意だって言われてるけど、seihoさんとかトレッキー・トラックスとかパーゴルさん、クリョーンさん、リカックス嬢にmetome、madegg氏らのビートメーカーたちの同時代性ぶりを見ると「ああ、、もう海外にコンプレックスを持たなくていいんだ」と思う。つまりCarpainterがいるならLoneをそんなにありがたがったりしなくていいんじゃないのということだ。ブレードランナーの街、カワサキ・シティから現れたイアン・オブライエン。

14. Jóhann Jóhannsson「End of Summer」

アイスランドの Jóhann Jóhannsson が監督し音楽も手がけたドキュメンタリー映画『End of Summer』のサウンドトラック作品。Mum、Hauschka などとのコラボレートでも知られるアイスランド人チェリスト Hildur Guðnadóttirとのコラボレーション。映像は南極大陸への旅をカメラに収めた28分の作品で、静寂感を伴った風景が作り上げる黙示緑的とも言えるような映像美。とのこと。黄金に輝く水面に現れた蜃気楼の向こうに自分の姿が見える、みたいな荘厳な世界観にうっとり。

15.Floating Points「Elaenia」

Floating Pointsことロンドン出身の29歳、Sam Shepherdのデビュー・アルバム。この夢にインスピレーションを受けたアルバムを6年かけて作ったそうだ。ということで朝起き抜けの夢うつつで作られた曲などが入っている。アナログのシンセやピアノ、ベース、ギターなどバラエティ豊かな楽器が散りばめられた豊かな音像。pitchforkではレディオヘッドとハービー・ハンコックとトータスが混ざったみたいと言われている。ちなみに彼は神経科学の研究者らしい。聴くものをも夢の世界へと誘ってくれる内省的なこの世界観は神経科学に根拠がある、のかも。

16. Dilly Dally「Sore」

グ、グランジ。何度googleカレンダーを確認してもいまは2016年なんですがこの音は一体、、、。Dilly Dallyはカナダのトロントを拠点に活動する、女性二人男性二人の4人組オルタナバンド。こんな音を2015年に作れるなんてすごいし、聴くと血がたぎる。すさまじく精巧に作られた九谷焼のビンテージのレプリカみたいな感じだ。これがすごいのは、かつてのバンドが復活して「あの頃」の音を鳴らされてもなんだか後ろめたくてイマイチ乗れないけど、若いバンドがこういう音をやってると「懐古的」な罪悪感から放たれて、無条件に全肯定できるのがすごい。


17. Hiatus Kaiyote 「Choose Your Weapon」
18. Hotchip「Why make sense?」
19. 挾間美帆「タイム・リヴァー」
20. Hunee「Hunch Music」
21. Fifth Harmony「Reflection」
22. Arca「Mutant」
23. Theo Burt「Gloss」
24. Lanterns on the Lake「Beings」
25. 寺田創一「Sounds From The Far East」


■次回作に期待賞
Christian Rich「FW14」
Zedd「True Colors」
Disclosure「Caracal」


■ベストトラック
TOWA TEI「Sound of Music」
CAPSULE「Dreamin’ Boy」
kelela「Rewind」
DANNY L HARLE 「Broken Flowers」

Rhizomatiks Research ☓ ELEVENPLAY「border」が「体験しないとわからない」というのはどういうことなのか

share_今日は「border」YCAM公演最終日なので、個人的な感想を書きます。

映画のスクリーンのなかに入り込みたいとか、繰り広げられる舞台の真ん中で観賞してみたいとか、誰しもがそんなことを思ったことがあるだろう。いままでコンテンツと観客のあいだにははっきりとした境界線があって、また芸術家や作家と観客とのあいだにもその境界線があった。

「border」ではその境界線を超えて、コンテンツの中に入りこむことができる。そこに広がっているのは至福の世界だ。思考することができなくなってしまうのだ。「思考の放棄」は脳にとって至福となる。「border」体験者には「ずっとこの世界にいたい」と語る人も多い。だがその「至福」がどういう境地なのか、言葉で説明することは難しい。

従来の芸術やエンターテインメントの「コンテンツ」は異世界をスクリーンの向こう側に描いたものだが、「border」はそのスクリーンの向こうに身体を入れ没入する「体験」である。あちら側の世界を見た人は、その世界がどんなものだったのか、まるで臨死体験のように興奮をもって語るだろう。しかしどんなに言葉を尽くして語ったとしても、その世界がどのようなところだったのかを知ることは難しい。彼岸に立ち、その光景を見た人のみが「知る」ことができる。

現代では「あちら側」のことを伝えるためのツールがたくさんある。文字や2D、3D、360度の写真や映像、音声、その他いろいろ。わたしたちは氾濫する情報によって「知った」つもりになっている。しかし「こちら側」でいくらその「情報」をかき集めたとしても、「あちら側の世界」については口頭で伝承される神話の程度の情報量しか得ることができないのだ。こんなに情報網が発達した現代においても。

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これまでのコンテンツにおいては、様々な方向から境界線を崩す挑戦がされてきた。とくにVRという領域は大きな可能性がありながら、技術と人間、その知覚と感性のバランスを取ることが難しく、境界線を崩すことが容易ではなかった。人間は無意識に、あらゆる感覚を使って、周囲からすさまじい情報を得て常に今自分がどこにいるのかを知覚している。人間の感覚は騙されやすいものであるとともに、簡単には騙されにくいものである。現実を構成する情報にほんの少しでもほころびが見えてしまうと、違和感を感じて没入することができず、すぐに「こちら側」に引き戻されてしまう。

「border」はその境界線を越えるために、人間の感覚に違和感を感じさせない技術と、溢れるばかりの芸術とエンターテインメントのちからで現実のほころびをねじ伏せた。身体を拘束し、テクノロジーとダンス、音楽、照明などの絶妙なバランスをもった演出によって、現実のほころびは完全に消え、あたらしい世界へと導かれる。

わたしたちが現実だと思っている世界で認識する「ほころび」は、実はすごく小さなことで引き起こされている。それを乗り越えるために、身体の動きと視覚から入る映像のズレが少ないとか、または何かに注意を惹くことで気をそらせるとか、そうした工夫の積み重ねが醒めることのない夢を作り出しているのである。

わたしがいるのはあちら側の世界なのか、それではいま感じる女性の息遣いは何なのか?現実なのか虚構なのか、もはやこの新しい世界においてはそのどちらでも良いような気がしてくる。思考の放棄による至福の体験。

このために費やされている技術と演出がどれだけ高度なもので、実現するのが難しいのかは、いま世界にあるコンテンツでここまでのものが無いことを見ればわかるだろう。この世界でも類を見ない完成度の高い作品が、まったくの少人数で、大資本の投入なども無く作られているというのは本当に驚異で奇跡としか言いようがない。クールジャパンは実在するのかもしれない。

現代のわたしたちは、リュミエール兄弟が撮影した、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる映画(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)を見て逃げ惑う19世紀の人たちを見て愚かだと笑う。しかし「border」によって「連れて行かれる」異世界に心を奪われ、その世界に入り込みたいと思ったあとでは、もう彼らを笑うことはできない。わたしたちが普段頼りきっている常識や感覚は盤石なものではなく、進化する現代のテクノロジーによって容易に揺り動かされるのだと知る。そしてまた、わたしたちは、どこまでも進化することができるのだということも。

「border」によって、境界線を越える時代がやって来たのだと思うし、その時代の変わり目に立ち会えたことを幸運だと思う。

もし次に公演の機会があったら、万難を排して体験してみてください。

Rhizomatiks Research ☓ ELEVENPLAY「border」

shipwrecks

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この前、夜、眠れなくて、アメリカの2ちゃんことredditをつらつら見ていた。そしたら「わたしのボーイフレンドが今夜死んだ」というスレッドが立っていて、たくさんの人達が見知らぬ女性の悲しみをいたわるコメントを寄せていた。これだからインターネットはやさしい。

たくさん寄せられたコメントのなかに、ものすごく印象的なものがあった。「僕が書いたものじゃないんだけど、助けになればと思って」と書いて貼られていたコピペだ。どうやら4年前に違うスレッドに書かれたものの転載らしい。

おそらくオリジナルはこれで、GSnowさんというユーザーが書いたものだ。

「誰かを失うこと」について書かれた、胸を打つ文章だったので日本語にしてみる。

=========================================
よしわかった、こんな例もある。わたしは年寄りだ。つまり、今までのところは生き延びてきて、たくさんの人と知り合い、そして亡くしてきた。わたしは友達を失った。親友たち、単なる知り合いたち、同僚たち、祖父母、母、わたしの家族、先生、師匠、生徒、ご近所さん、そのほか、たくさんのいろんな人々をも失った。わたしにはこどもがいない。だからこどもを失う悲しみがどれだけのものかは想像できない。でもわたしなりの見解をここにちょっと書いてみる。

もしわたしが、あなたに「人の死には慣れるものだよ」と言えたらいいと思う。でも一度も慣れたと思ったことはなかった。慣れたいとも思わなかった。わたしの愛する人が死んだときにはいつだってわたしのなかにぽっかりと穴が空いた。どんな事情であれそうなった。でも「どうでもいい」と思いたくはなかった。ただ過ぎゆくものにはしたくなかった。

わたしの傷は、その人との間に育んだ愛と、つながりの証なのだ。もし傷が深かったら、それは愛によってのもの。だからそのままにしておけばいい。傷は人生の証だ。傷はわたしが誰かを深く愛し、深く生きることが出来たという証なのだ。それが切り傷にとどまらず、ときには深いえぐり傷であっても。わたしはその傷を治すことが出来るし、またこれからも生きて、愛することを続けることが出来る。そして傷ついた組織は以前よりも強く、新鮮なもの。傷は人生の証だ。だがそれがわからない人にとっては、醜いものに映ることだろう。

「誰かを失った深い悲しみ」は、まるで波のようなものだ。初めて船が難破したとき、あなたは溺れ、周りには難破した船の破片がそこら中に浮かんでいるだろう。あなたの周りに浮かんでいる物全てが、その船がいかに美しく素晴らしかったのかをあなたに思い出させる。でももう、その船はない。

あなたが出来るのは海にぷかぷかと浮かぶことだけだ。あなたはしばらくの間、破片のかけらにつかまっているだろう。それは多分、なにかしらの、かたちのあるもの。幸せな想い出の写真かもしれないし、あなたと一緒に海に浮かんでいる人かもしれない。当面の間、あなたにできるのはぷかぷかと浮かんでいることだ。生き続けろ。

最初のうちは、波は100フィート(30メートル)もあって、慈悲もなくあなたを粉々にするだろう。波は10秒と置かずにやってきて、息をする暇も与えてくれない。だがしがみついて、浮かび続けることだ。しばらくするとーーそれは何週間、もしくは何ヶ月後。あなたはまた100フィートの波を見つけるのだけど、それはすごく遠くに見えるのだ。そして実際に波がやってきたときには、またその波はあなたの全てを打ちのめし、あなたの全ての力を奪うだろう。でも波がやってくるまでに、あなたは呼吸をし、機能することができる。

あなたは、何がきっかけで「誰かを失った深い悲しみ」があなたを襲うのかは永遠に知ることができない。それは歌かもしれないし、絵かもしれないし、交差点の車や、一杯のコーヒーの匂いかもしれない。何にせよ波は突然やってきて…あなたを打ちのめす。でもその波のあいだに、人生がある。

いつかふと、あなたは波の高さが80フィートになっているのに気づくだろう。もしくは50フィートに。波が押し寄せ、そして遠のく、その狭間で。あなたは波がこちらにやってくるのを見る。記念日、誕生日、クリスマス、空港に降り立ったとき。それがやってくるとき、あなたはそれに対して準備ができるようになる。波があなたを丸呑みしたときに、あなたはどうすればいいのかを知っている。そうすればもう出口はすぐそこに来ている。ずぶ濡れになって、小さな難破船の破片につかまったままでも、あなたにはもうわかるのだ。

年寄りの男が言うことだと思って聞いてくれ。波が止まることはない。永遠にやってくる。それがどんなに来て欲しくないと思ったとしても。でもあなたはその波によって、生き残る方法を知る。そしてまた違う波が来る。そしてまた、あなたは生き残る。もしあなたがラッキーだったら、たくさんの愛から出来た、たくさんの傷を負うだろう。たくさんの、難破船とともに。

Alright, here goes. I’m old. What that means is that I’ve survived (so far) and a lot of people I’ve known and loved did not. I’ve lost friends, best friends, acquaintances, co-workers, grandparents, mom, relatives, teachers, mentors, students, neighbors, and a host of other folks. I have no children, and I can’t imagine the pain it must be to lose a child. But here’s my two cents.
I wish I could say you get used to people dying. I never did. I don’t want to. It tears a hole through me whenever somebody I love dies, no matter the circumstances. But I don’t want it to “not matter”. I don’t want it to be something that just passes. My scars are a testament to the love and the relationship that I had for and with that person. And if the scar is deep, so was the love. So be it. Scars are a testament to life. Scars are a testament that I can love deeply and live deeply and be cut, or even gouged, and that I can heal and continue to live and continue to love. And the scar tissue is stronger than the original flesh ever was. Scars are a testament to life. Scars are only ugly to people who can’t see.
As for grief, you’ll find it comes in waves. When the ship is first wrecked, you’re drowning, with wreckage all around you. Everything floating around you reminds you of the beauty and the magnificence of the ship that was, and is no more. And all you can do is float. You find some piece of the wreckage and you hang on for a while. Maybe it’s some physical thing. Maybe it’s a happy memory or a photograph. Maybe it’s a person who is also floating. For a while, all you can do is float. Stay alive.
In the beginning, the waves are 100 feet tall and crash over you without mercy. They come 10 seconds apart and don’t even give you time to catch your breath. All you can do is hang on and float. After a while, maybe weeks, maybe months, you’ll find the waves are still 100 feet tall, but they come further apart. When they come, they still crash all over you and wipe you out. But in between, you can breathe, you can function. You never know what’s going to trigger the grief. It might be a song, a picture, a street intersection, the smell of a cup of coffee. It can be just about anything…and the wave comes crashing. But in between waves, there is life.
Somewhere down the line, and it’s different for everybody, you find that the waves are only 80 feet tall. Or 50 feet tall. And while they still come, they come further apart. You can see them coming. An anniversary, a birthday, or Christmas, or landing at O’Hare. You can see it coming, for the most part, and prepare yourself. And when it washes over you, you know that somehow you will, again, come out the other side. Soaking wet, sputtering, still hanging on to some tiny piece of the wreckage, but you’ll come out.
Take it from an old guy. The waves never stop coming, and somehow you don’t really want them to. But you learn that you’ll survive them. And other waves will come. And you’ll survive them too. If you’re lucky, you’ll have lots of scars from lots of loves. And lots of shipwrecks.

=========================================

あと、

この宇宙におけるすべての物質とエネルギー量は一定に保たれている。だから彼のエナジーはまだそのへんにあって、あなたによって伝えられる?よ。
all the matter and energy in the universe stays the same, no matter what. his energy is out there, carried by you.

というのもじーんときた。
世界はやさしさで出来ている。

※ヘボい語学力で訳しているので、間違いあったら教えてください!

パリでスリにあったらどうする

前回はテロに追悼の意を示した本ブログですが、
その一ヶ月前、わたしはそのエリアでスリにあってました、、、

あなたはスリにあったことがありますか?
わたしはなかった!!なかったんです。
ロンドンでもローマでもスペインでも上海でも一円もスられず、
スられるという危険すら感じたことがなかった。
だからめちゃくちゃ油断してたんですよね…生きるってことに…

今回、パリについた2日目にはもうスリにあってました。
あれはそう、9月の終わりのこと。
まぶしいな〜青い空が


レアムール・セバストポール駅のホテルに滞在していたわたしは、
メトロに乗って取材先であるアンリアレイジさんのアトリエに通っていました(そして無一文になりお金を借りるという、、、、一生アンリアレイジを着る宣言)。
パリのメトロはクレジットカードでチケットが買えます。
小銭がないのでカードで買って、暗証番号を入力して改札へ。

多分このとき、スリは暗証番号を打つ手元を後ろから見てました。
改札に入る前か、入ったあとにわたしの財布をスッて、
まだわたしがメトロから降りないくらいの速攻さで
ATMでお金を降ろすという手口です。
あとでチェックしたら、めちゃくちゃ降ろされてました。

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SNSで絶叫したら、たくさんの方が慰めてくれました、、
ありがとうインターネット、、
スられたセンパイからのメッセージがしみました。

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田中さん、スられすぎです

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つい2週間前、この人がオーストリアからヴェネツィアに向かう寝台車で財布をスられていたのを「あら大変そうね..」と眺めていた。まさか自分がスられるなんて、、

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この人はフィリピンに短期語学留学に行ったら財布をスられて一文無しになり、見ず知らずのギャラリーに飛び込んでお金を借りたんだそうだ、、すごすぎる、、、、

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スペインには美人局が

有り金をなくしてすごく悲しい気持ちになったので、
他人の不幸なエピソードを求めてみました。


さすがだぜ、こいつら血も涙もない


ほか、海外にすら行けなかった人や、
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インドで強盗に追いかけられた人も…
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世界は広い。みんなが身を切って体験した
ヘビーな想い出がしみます。


新婚旅行はネクストレベルです。
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銃はカンベン
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起きてたのに飛行機乗り過ごした人、、
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外国は家の中ですら油断できない
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3分で置き引きは凹む
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複数回はすごいわ
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昏睡強盗ってのもあるそうです、、
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世界を旅するアーティスト、キンセイさんの冷静な教え
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■それでは正解です
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それでは、スリにあったらどうするのか?!
現在シンガポール在住の、チームラボ・高須さんから教えてもらいました。

スリにあったら、それはこの3ステップ。

ステップ1. カード会社に電話してカードを止める
ステップ2. 最寄りの警察署に行って「盗難届」を作る
ステップ3. 帰国後、盗難届を持ってカード会社などへ

■国際電話はskypeでかけるべし
で、ステップ1.は、普通に国際電話すると一回で
何千円にもなってしまいます。
が、skypeで課金すると国内外の携帯電話や
固定電話に電話をかけることができるんです。
たっぷり話して、一回なんと10円ぐらい。
コレクトコールができないし、
フリーダイヤルでは国際電話だと拒否されたりするので
これはものすごく助かりました。
クレジットカードがない人も、
友達にクーポンをプレゼントしてもらえるので大丈夫。

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ここから

高須氏(そのときNYから移動中)が
現金振込をしてくれたので、
心置きなく電話できました、、
普通にmacbook airのスピーカーで会話。
めちゃくちゃ使いまくったのに全部で50円ぐらいだった。
本来なら1万円以上かかってたと思う。
本当に夢みたいだった。高須ありがとう

高須氏いわく、「外国で外人にまみれた独居中年ライフを送るにはこういうノウハウが必要なのです」
とのこと・・・・・・・



■警察はアタリとハズレがある

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こういうサインが警察。
Google Mapsで「警察」と入れると出てきます。

とにかくスリにあったら警察に行くこと。
「スリ(pickpockets)にあった」と言うとどこかしらに案内してくれます。
外国の警察は働かないと言われますが、
多分警察署にもアタリとハズレがあります。
わたしは最初に行った警察署がハズレで、ひたすら「待ってろ」と言われて
イスに座って待ってたけどなにも起こらず1時間半。
諦めて、また次の日に違う警察署にいってみたらちゃんと対応してくれて、
30分ぐらいで調書がもらえました。

1.入り口にいる人に「スリ(pickpockets)にあった」と言う
2.受付で「スリ(pickpockets)にあった」と言う
3.個室に呼ばれて「いつ、どこで、なにを、いくら分」取られたかを話して書類を作ってもらう
4.その場で書類を渡される

という感じです。

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これがもらえる調書

これを面倒がると、日本に帰ってから保険が降りないそうなので
必ずもらうようにとみんなに言われました。

実際帰国後に、カードのキャッシング被害にあったとカード会社に言ったら
「キャッシングは暗証番号を入れるから本来保険の対象外」と言われて
焦りました。

でもスリの手口を説明して、盗難届を提出したら保険の適用内にしてくれたので
ほんとによかったです。ホッ


■スリは文化
パリは呼吸をするようにスリがいました。
瘴気のようなものだったのかもしれない。
そういうところに行ったのなら、
そもそもちゃんと対策をしておかなければならないわけで。
郷に入っては郷に従えということで、
スリが文化なのならこちらもそれなりの応対をしなければならないのであります。
最低でもこれくらいはしておきたい。

・そもそも財布を持ち歩かないのがベター。
 ホテルに金庫があったら、必要最小限の現金とクレジットカード1枚、
 緊急連絡先などを簡易的な袋などに入れて、
 バックアップを作っておく
・クレジットカードもいっぺんに全部を持ち歩かない
・財布とパスポートは別に持っておくこと
・なるべく身体に密着するものに財布類は入れる。
 ただし背中側に中身をまわさないこと

【旅行前にやっておくこと】
・クレジットカードの旅行保険の条件を確認、
たいていは「飛行機チケットか、空港までの交通費をそのカードで払う」なので
満たしておくこと。そうでなければ掛け捨ての旅行保険に入る。
こんなの→http://www.sjnk.co.jp/kinsurance/leisure/off/
Webサイトからだと安い。空港でも出発前なら加入できるのでやっておくこと。
・skypeはアカウントをとって、500円ぐらい振り込みしておくこと

ちなみにスペインのホテルの部屋に置いておいたmacを盗まれるという人
いたので、ホテルの部屋も日本と違って油断は禁物。
わたしはむかしロンドンのホテルで、部屋の清掃時に
友達が作ってくれたネグリジェと太宰治の文庫本を盗まれたことがあります。
なんでそんなものがほしいんだ。謎すぎ

■芸ができれば小銭を稼げる
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しかし現金もカードもない世界の新鮮なこと!
世界が変わって見えました。(何も関与できないという意味で)
そして「もしわたしが歌えたり踊れたりするなら、道でお金を稼げるのに」
と痛切に思った。ここでは日本語が書けても何の価値もない。
でも歌とか踊りとかマジックだったら通用するんだ。
そう思って自分の非力さを思い知った。
スリに対抗する最善の方法はノンバーバルな芸かも。
折り紙とか民謡とか覚えようかなあ。

赦すということ “あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

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2015年11月13日、フランス・パリ市街で同時テロが起こり、
劇場やレストラン、スタジアムなどで少なくとも127人が死亡、
約300人が負傷した。

ドミニク・チェンさんが、このテロで奥さんを亡くした男性が書いた
テキストを日本語に翻訳されていたものをブログにアップされていて、
その感動的な文章に胸を打たれた。こんな文章だ。
こちらのリンクから全文が読める。

“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

金曜の夜、あなたたちは私にとってかけがえのない存在であり、人生の最愛の人である、私の息子の母親の命を奪ったが、あなたたちは私の憎しみを得ることはできない。あなたたちが誰なのかは知らないし、知りたくもないが、あなたちの魂が死んでいることはわかる。
〜略〜
もっともあなたたちはそのことを望んだのだろうが、憎しみに対して怒りで応えることは、今のあなたたちを作り上げた無知に屈することを意味する。あなたたちは私が恐怖におののき、同じ街に住む人々に疑いの目を向け、安全のために自由を差し出すことを望んでいるのだろう。あなたたちの負けだ。何度やっても同じだ。


テロの目的とは、無差別に人を傷つけ、
社会を混乱と恐怖に陥らせること。
復讐に走ったら、テロリストの意思に沿うことになってしまう。
だからあなたたちに「憎しみ」は与えない、
という宣言。

この文が感動的なのは、愛する妻を失い、
17ヶ月の息子とたった二人で取り残されるという
身体に風穴が開くような大きなダメージを受けながら、
相手を傷つけようとしていないことだ。
ものすごい精神力だと思う。わたしなら絶対にできない。

フランスは理性の国だ。
中世の迷信にまみれた社会から、理性によって近代国家を作った。
だから、振りかかる大きなものを
人間の知によって克服していこうという意識が強いのかもしれない。

テロはおそろしい。
それはまったく根拠がないからだ。
どんなに清く正しく生きている人でも関係ない。
暴力というものが突然目の前に現れ、
なんの権利もないのに、全てを奪っていく。

振りかかること、奪われること、
いずれも自分で選ぶことができない。

■奪われたあとのことは自分で決めることができる

だが、奪われてからどうするのかは、
自分で決めることができる。

そもそも「目には目を、歯には歯を」
っていうハムラビ法典や旧約聖書に出てくる
有名な言葉は、やられたらやりかえせ、という
ことに聞こえるが、実はそうじゃない。

目を攻撃された人がエスカレートして、
相手の生命をも奪ってしまわないように、
「目を攻撃されたら相手の目を攻撃するだけにとどめなさい」
ということだった。

それが旧約聖書の頃で、
その後の新約聖書になるとイエス・キリストは
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」
と言った。

私はあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン(1.5km)行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。
(マタイ福音書5章38節から41節)


右の頬を打たれるのは降りかかってきたこと。
でも左の頬を差し出すのは自分の自由意志でやったこと。
最初の1ミリオンは人から強いられた距離だけど、
自ら歩くもう1ミリオンは、自分の意思で歩くもの。

受難に遭った時に、それを逃れられないものとして嘆くのではなく
相手を責めることなく、積極的に世界に関わっていくことが、
「赦し」ということなのかもしれない。

この「赦し」という概念はキリスト教でやたらと出てくる
言葉で、普通に生きてるとあんまり意識しないものなんだけど、
ドミニクさんが訳した文章を見て、
ああそういえばそういうものがあったなって
ひさびさに思い出した。

でもいままではその「赦し」というものが
具体的にどんなものなのか、全然理解できなかった。
聖人のような人が、何をされてもその人を咎めることなく
愛します、みたいなことなのかと思っていた。
そんなの全然現実味がないから、
わたしには関係のないことだと思っていた。

でももし「赦し」というものが自発的なものならば、
わたしにもそれが出来るかもしれない。
なにかが降りかかってきたときに、
恨みや憎しみという感情を選択しないこと。

それこそが、わたしたちの人間性と幸福という
ささやかな矜持を守ってくれるものなのかもしれない。

このいくらでも恐ろしいことが
起こりえる残酷な世界において、
その知恵と意思こそが、
まるで悪意や雪崩のように起こる
悲惨なできごとから、
傘のようにわたしたちを守ってくれる。

わたしたちがこの世界の広さと未知さに怯えて
立ちすくむことのないように、
そのすべてを愛することができるように。

この小さな男の子はこれからの一生の間、自らが幸せで自由でいることによって、あなたたちに立ち向かうだろう。なぜなら、そう、あなたたちは彼の憎しみを得ることもできないからだ。
“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”



“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

カンファレンスに出席したらカメラをもらった 〜AdobeMAXがすごい〜

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皆さんこんにちは。いまわたしはLAことアメリカのロサンゼルスにいます。

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イエーイ(フォトツアーでのひとこま)

というのも、Adobe社のイベント「AdobeMAX」の
メディアツアーに参加させて頂いてるんです。

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そもそもAdobeといえばPhotoshopとか、Illustratorとか、
表現するためのツールを作ってる会社。
改めて考えると、Adobeはすごい会社だと思う。
なにがすごいって競合がない。
だいたい鉛筆だって絵の具だって競合があるのに、
PhotoshopにもIllustratorも、かつてはFlashも、
あまりにも独特で、絶大なニーズがある製品だ。
これから同機能のものを開発してやろうという気を
誰も起こさないくらい、せこいマーケティング
なんかが通用しないくらい、
Adobeにしかできないことをやっている会社だ。

Appleがなくなっても、IBMがなくなっても、
Autodeskがなくなっても、KORGがなくなっても
YAMAHAがなくなってもdocomoがなくなっても世界は
今とそれほど変わらない気がするんだけど、
でももしAdobeがなくなって、フォトショもイラレも使えなくなったら、
考えられないくらいたくさんの人の人生が変わるんじゃないか。
世界も、いま見ている世界とはちょっと違うものになるだろう。

なんという絶大な権力。アレキサンダー大王だって
ここまでの権力は持っていなかった。
しかも「アジア圏で絶大なシェア」とかじゃなくて、
全世界の人が同じように使って欲しているものとなると
これはもう私企業が作れたのが不思議なくらいの奇跡である。

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そんなAdobeさんが最近推しているのが、
Adobe Creative Cloudを通じた
「コネクテッド クリエイティブ キャンバス」の構想。
iPadとかのアプリで描いた絵がクラウドに保存されて、
ご自宅のデスクトップで編集できる、みたいなやつだ。
気になる人はこちらをどうぞ。

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で、そうだイベントの話をするんだった。
こちらがAdobeMAXの会場です。

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今年の「AdobeMAX」は10月3日から7日まで。
世界60カ国から7,000人のデジタル・クリエイティブ関係者が
集います。

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4日に行われた基調講演。
アドビのデジタルメディア、シニアバイスプレジデント兼
ゼネラルマネージャーのブライアン・ラムキンさんが講演を行いました。

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ラムキンさん、Adobe製品がなくてはならない
ものになったジャンル「写真」について語っております。
モバイル専用のレタッチアプリ「Photoshop Fix」が登場したんですねなるほど、、
なんて聞いてたら、、、

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「AdobeがFUJIFILMとコラボレーション?しました!!!!」
というニュースが。
それがこのカメラ「Fujifilm X-T10」。

APS-Cサイズの有効1630万画素センサーを搭載したミラーレスカメラ。最大の特長は、金属を多用した高品位なボディに、アナログダイヤルやチルト可動液晶、高精細EVFなどを凝縮しつつ、約381gという軽さを実現したこと。

というもの。

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ミラーレスで軽くて、
なんかめっちゃいいカメラなんですけど、

ラムキンさんがその次に発した言葉に度肝を抜かれました。

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「え〜みなさんにこのカメラ、あげます」

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え?

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「ここにいる来場者、全員に、もれなく、このカメラをさしあげます。」

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マジで?

来場者、7,000人いるんですけど、、、?!

でもまあ、全員とか言ってもね。
どうせ先着順とかだろうしね。
そんなもらえるわけないしね。

と思って全く期待していなかったのですが、
これはほんとのほんとに「来場者全員」に配ってるものでした。
なんとわたくしももらえてしまったんです、、!!!!
カメラスポンサーのFUJIFILMさん&Adobe社すごすぎだろ!!

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バーン!!!!!!!!!!
ヤバイ!!!!ほんとにもらえた。

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箱だけかな?と思ったけどちゃんと中身も入ってた、、

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レンズキットなのでレンズも入ってた、、

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昨年ニューヨークで泥酔してタクシーの中に
カメラを忘れて紛失したので、こんないいカメラもらって超うれしい、、
デジカメもらったのなんて昔誕生日におねだりして以来だなあ、、

っていうかそもそも、
Adobe社がメディアツアー参加者に
抽選でお土産をプレゼントしていて、
それにうっかり当選し、
・モレスキンとのコラボ手帖
・Bluetoothのスピーカー!!
・Adobe印の水筒
などを頂いて驚愕していたばかりでした。

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すげ〜

我が人生を振り返ってみると、かつてここまで
もてなしてもらえたことがあったか疑問。
もうプラマイゼロどころかプラスすぎて、
おれのクジ運は今後大丈夫なのか心配になるレベル!
どうしようこれから先!!
そうだ、Adobe製品を使いこなして年収上げよう!!
もうそれしかない!!

ちなみにAdobeMAXでのサプライズ・プレゼントは初めてのことではなく、
昨年はMicrosoftがタブレット型PC「Surface Pro 3」を全員に贈ったんだそうです、、、、、
カンファレンスに出席したらパソコンもらえるってどういうことだ!!
まあ参加者全員が全世界から集まったデジタルクリエイティブに関わる人なので、
マーケティング的には効率がいいのかもしれない。。

AdobeMAXの参加費用は1600ドル(およそ19万円)なのですが、
リピーターがとても多いイベントなんだそう。
こんなふうにサプライズ・プレゼントがあったりするのも原因のひとつなのかも
しれないのですが、全体的にすごくおおらかでサービス精神旺盛なイベントで、
なんだか一度来てみると毎年来続けたくなる、不思議な魅力があります。
今回のイベントにおけるAdobeの方
のフル回転の広報ぶりを見ていると、こういう人たちがその雰囲気を作ってるんだろうなと思いました。

それでは引き続き「AdobeMAX」のことをレポートしていきます!

AdobeMAX