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2015年11月13日、フランス・パリ市街で同時テロが起こり、
劇場やレストラン、スタジアムなどで少なくとも127人が死亡、
約300人が負傷した。

ドミニク・チェンさんが、このテロで奥さんを亡くした男性が書いた
テキストを日本語に翻訳されていたものをブログにアップされていて、
その感動的な文章に胸を打たれた。こんな文章だ。
こちらのリンクから全文が読める。

“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”

金曜の夜、あなたたちは私にとってかけがえのない存在であり、人生の最愛の人である、私の息子の母親の命を奪ったが、あなたたちは私の憎しみを得ることはできない。あなたたちが誰なのかは知らないし、知りたくもないが、あなたちの魂が死んでいることはわかる。
〜略〜
もっともあなたたちはそのことを望んだのだろうが、憎しみに対して怒りで応えることは、今のあなたたちを作り上げた無知に屈することを意味する。あなたたちは私が恐怖におののき、同じ街に住む人々に疑いの目を向け、安全のために自由を差し出すことを望んでいるのだろう。あなたたちの負けだ。何度やっても同じだ。


テロの目的とは、無差別に人を傷つけ、
社会を混乱と恐怖に陥らせること。
復讐に走ったら、テロリストの意思に沿うことになってしまう。
だからあなたたちに「憎しみ」は与えない、
という宣言。

この文が感動的なのは、愛する妻を失い、
17ヶ月の息子とたった二人で取り残されるという
身体に風穴が開くような大きなダメージを受けながら、
相手を傷つけようとしていないことだ。
ものすごい精神力だと思う。わたしなら絶対にできない。

フランスは理性の国だ。
中世の迷信にまみれた社会から、理性によって近代国家を作った。
だから、振りかかる大きなものを
人間の知によって克服していこうという意識が強いのかもしれない。

テロはおそろしい。
それはまったく根拠がないからだ。
どんなに清く正しく生きている人でも関係ない。
暴力というものが突然目の前に現れ、
なんの権利もないのに、全てを奪っていく。

振りかかること、奪われること、
いずれも自分で選ぶことができない。

■奪われたあとのことは自分で決めることができる

だが、奪われてからどうするのかは、
自分で決めることができる。

そもそも「目には目を、歯には歯を」
っていうハムラビ法典や旧約聖書に出てくる
有名な言葉は、やられたらやりかえせ、という
ことに聞こえるが、実はそうじゃない。

目を攻撃された人がエスカレートして、
相手の生命をも奪ってしまわないように、
「目を攻撃されたら相手の目を攻撃するだけにとどめなさい」
ということだった。

それが旧約聖書の頃で、
その後の新約聖書になるとイエス・キリストは
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」
と言った。

私はあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン(1.5km)行けと強いるような者とは、一緒に二ミリオン行きなさい。
(マタイ福音書5章38節から41節)


右の頬を打たれるのは降りかかってきたこと。
でも左の頬を差し出すのは自分の自由意志でやったこと。
最初の1ミリオンは人から強いられた距離だけど、
自ら歩くもう1ミリオンは、自分の意思で歩くもの。

受難に遭った時に、それを逃れられないものとして嘆くのではなく
相手を責めることなく、積極的に世界に関わっていくことが、
「赦し」ということなのかもしれない。

この「赦し」という概念はキリスト教でやたらと出てくる
言葉で、普通に生きてるとあんまり意識しないものなんだけど、
ドミニクさんが訳した文章を見て、
ああそういえばそういうものがあったなって
ひさびさに思い出した。

でもいままではその「赦し」というものが
具体的にどんなものなのか、全然理解できなかった。
聖人のような人が、何をされてもその人を咎めることなく
愛します、みたいなことなのかと思っていた。
そんなの全然現実味がないから、
わたしには関係のないことだと思っていた。

でももし「赦し」というものが自発的なものならば、
わたしにもそれが出来るかもしれない。
なにかが降りかかってきたときに、
恨みや憎しみという感情を選択しないこと。

それこそが、わたしたちの人間性と幸福という
ささやかな矜持を守ってくれるものなのかもしれない。

このいくらでも恐ろしいことが
起こりえる残酷な世界において、
その知恵と意思こそが、
まるで悪意や雪崩のように起こる
悲惨なできごとから、
傘のようにわたしたちを守ってくれる。

わたしたちがこの世界の広さと未知さに怯えて
立ちすくむことのないように、
そのすべてを愛することができるように。

この小さな男の子はこれからの一生の間、自らが幸せで自由でいることによって、あなたたちに立ち向かうだろう。なぜなら、そう、あなたたちは彼の憎しみを得ることもできないからだ。
“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”



“あなたたちは私の憎しみを得ることはできない”