share_今日は「border」YCAM公演最終日なので、個人的な感想を書きます。

映画のスクリーンのなかに入り込みたいとか、繰り広げられる舞台の真ん中で観賞してみたいとか、誰しもがそんなことを思ったことがあるだろう。いままでコンテンツと観客のあいだにははっきりとした境界線があって、また芸術家や作家と観客とのあいだにもその境界線があった。

「border」ではその境界線を超えて、コンテンツの中に入りこむことができる。そこに広がっているのは至福の世界だ。思考することができなくなってしまうのだ。「思考の放棄」は脳にとって至福となる。「border」体験者には「ずっとこの世界にいたい」と語る人も多い。だがその「至福」がどういう境地なのか、言葉で説明することは難しい。

従来の芸術やエンターテインメントの「コンテンツ」は異世界をスクリーンの向こう側に描いたものだが、「border」はそのスクリーンの向こうに身体を入れ没入する「体験」である。あちら側の世界を見た人は、その世界がどんなものだったのか、まるで臨死体験のように興奮をもって語るだろう。しかしどんなに言葉を尽くして語ったとしても、その世界がどのようなところだったのかを知ることは難しい。彼岸に立ち、その光景を見た人のみが「知る」ことができる。

現代では「あちら側」のことを伝えるためのツールがたくさんある。文字や2D、3D、360度の写真や映像、音声、その他いろいろ。わたしたちは氾濫する情報によって「知った」つもりになっている。しかし「こちら側」でいくらその「情報」をかき集めたとしても、「あちら側の世界」については口頭で伝承される神話の程度の情報量しか得ることができないのだ。こんなに情報網が発達した現代においても。

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これまでのコンテンツにおいては、様々な方向から境界線を崩す挑戦がされてきた。とくにVRという領域は大きな可能性がありながら、技術と人間、その知覚と感性のバランスを取ることが難しく、境界線を崩すことが容易ではなかった。人間は無意識に、あらゆる感覚を使って、周囲からすさまじい情報を得て常に今自分がどこにいるのかを知覚している。人間の感覚は騙されやすいものであるとともに、簡単には騙されにくいものである。現実を構成する情報にほんの少しでもほころびが見えてしまうと、違和感を感じて没入することができず、すぐに「こちら側」に引き戻されてしまう。

「border」はその境界線を越えるために、人間の感覚に違和感を感じさせない技術と、溢れるばかりの芸術とエンターテインメントのちからで現実のほころびをねじ伏せた。身体を拘束し、テクノロジーとダンス、音楽、照明などの絶妙なバランスをもった演出によって、現実のほころびは完全に消え、あたらしい世界へと導かれる。

わたしたちが現実だと思っている世界で認識する「ほころび」は、実はすごく小さなことで引き起こされている。それを乗り越えるために、身体の動きと視覚から入る映像のズレが少ないとか、または何かに注意を惹くことで気をそらせるとか、そうした工夫の積み重ねが醒めることのない夢を作り出しているのである。

わたしがいるのはあちら側の世界なのか、それではいま感じる女性の息遣いは何なのか?現実なのか虚構なのか、もはやこの新しい世界においてはそのどちらでも良いような気がしてくる。思考の放棄による至福の体験。

このために費やされている技術と演出がどれだけ高度なもので、実現するのが難しいのかは、いま世界にあるコンテンツでここまでのものが無いことを見ればわかるだろう。この世界でも類を見ない完成度の高い作品が、まったくの少人数で、大資本の投入なども無く作られているというのは本当に驚異で奇跡としか言いようがない。クールジャパンは実在するのかもしれない。

現代のわたしたちは、リュミエール兄弟が撮影した、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる映画(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)を見て逃げ惑う19世紀の人たちを見て愚かだと笑う。しかし「border」によって「連れて行かれる」異世界に心を奪われ、その世界に入り込みたいと思ったあとでは、もう彼らを笑うことはできない。わたしたちが普段頼りきっている常識や感覚は盤石なものではなく、進化する現代のテクノロジーによって容易に揺り動かされるのだと知る。そしてまた、わたしたちは、どこまでも進化することができるのだということも。

「border」によって、境界線を越える時代がやって来たのだと思うし、その時代の変わり目に立ち会えたことを幸運だと思う。

もし次に公演の機会があったら、万難を排して体験してみてください。

Rhizomatiks Research ☓ ELEVENPLAY「border」