61Zk7PBy4nL

藤代冥砂が妻の田辺あゆみを撮った「もう、家に帰ろう」という9年前に出た写真集がある。そこに写っているのは一見穏やかな日常の光景だが、藤代冥砂によるむきだしの「あゆ」への憧憬が噴出しまくっていた。帯のミスチルの言葉と一緒に、発売と同時に大きなセンセーションを巻き起こし、写真集としては異例の10刷を超えた。

そのすごさを垣間見たのは、なにかの出版イベントで田辺あゆみがお店でトークショーをした時。蛍光灯が物悲しく光るムードもへったくれもない店内で、30分程度ただ田辺さんがしゃべってサインする、という取り立てて何もないイベントだった。それなのに同行した藤代さんは片時もカメラを手放さず、スチール机でしゃべるあゆ、サインするあゆ、などをひたすらハッセルブラッドかなにかで連写しまくっていて、切ったシャッターの数は1000枚を超えていたと思う。なにがそこまでさせるのか、なんだかもうただならぬ物を感じるほかなかった。

藤代冥砂を突き動かしているのは何なのだろうか。だれでも、自分の特別な人が映った写真を見ると特別な感情が沸き起こることに身に覚えがあるだろう。見知らぬ群衆の写真はただの風景と変わらないが、群衆の中に自分の特別な人がいるというだけでその写真が途端に光り輝いて見える。どちらの写真も同じ画素の塊でありただの絵(ピクチャー)なのに、後者の場合はその人のかけらがそこに存在しているかのような、2.5次元的なものとして扱われる。まるっきりオカルトのような話であるが、写真とそれを見る人の関係をみるとそうとしか思えない。写真家が特別な人を写真に残すのは、そのありがたさと霊性に誰よりも頻繁に触れているからかもしれない。

今作における被写体との関係性は同じく家族のポートレイトである他の写真家のそれとは全く違って見える。上田義彦の「at home」では映画の一コマのように客観的に見えるし、古屋誠一の「メモワール」においては被写体を被写体として愛してしまいすぎた故に、被写体自身が写真に宿る霊性に壊されてしまったような印象さえ受ける。

そして「もう、家に帰ろう」に感じるのは、写真家と被写体の縮まらない距離だ。写真家は被写体をずっと「一体化したいけどできないもの」、「届きそうで届かないもの」として撮っているように見える。一緒に生活して、一番近い存在になっても相手は他人というか別の人間のままだ。それは田辺あゆみがプロのモデルだから被写体であるということを(どんなに油断したように見えても)100%コントロールできているのかもしれないし、2人の関係性からくるものかもしれないし、ともすると写真集そのものが壮大なフィクションのようにも見えてくる。

写真とは不思議なものだ。いま目の前にある光景が定着し、自分以外の人にも見えるように残る。一瞬目を離せば消えてしまうものが永遠のように残るなんて、仕組みを聞いてもよく意味がわからない。ただいつも思うのは、自分の眼差しから見える景色をそのまま残すことは360度カメラをもってしても難しい。主観というのは立ち現れた瞬間に消えてしまうものだからだ。写真を撮る時にアマチュアは主観を定着させたいと願ってシャッターを押すが、いつだってそこに写るのは撮影時に見ていたものとは違うものである。アマチュアの写真は常に撮影者の手を離れ、第三者の視点から撮られている。

その点、この写真集は写真家の主観をほぼ揺るがすことなく本として定着させることに成功しているようだ。それがいつも、鑑賞者に何かを訴えかけてくるのである。