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6. めぐる思考と共に

March 17, 2010
Mamoru kano
WOW/wowlabアートディレクター、鹿野護による連載最終回

CBC-NETでの連載も早いものでこれが最終回となります。連載というものが初めてだったので試行錯誤しながらテキストを書きましたが、いかがだったでしょうか。今回は最終回という事もあり、技術的な事は忘れて、日々考えているいくつかのテーマについて書きたいと思います。



「美しさ」

数学者は良い仕事を「美しい」と形容する。科学者、技術者、音楽家、建築家、デザイナー、作家、画家、そういった人々も、過去や現在に「美しい」という形容詞を使ってきた。皆が同じ単語を使うのは単なる偶然なんだろうか。 - 「ハッカーと画家」Paul Grahamより引用

私には二人の子供がいます。そしてどちらの子供もとても早い時期に「きれい(ちれー)」という言葉を覚えました。子供達がしょっちゅうきれいというものだから、きれいとはいったい何だろう?と大人ならではの思考を巡らせてしまう事があります。

それにしても、大人になると日常的に「美しい」という言葉を頻繁には使わなくなります。もちろん旅をしたり、美術館に行ったりといった非日常の体験では美しいという感じる事はありますが、時間に追われた毎日の生活からは、美しさを見いだすのが難しくなるのかもしれません。

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最近自分が美しいと思ったのは何だろうと思い出してみました。高台から見た朝焼け、電車の車窓から見た下弦の月。湿った雪がシュロの木に積もった光景。手嶌葵さんの声。映画アバターの森。波動のシンプルなアルゴリズム。とあるプロジェクトでコンセプトとビジュアルの関係にすんなり筋が通った事。3Dマンデルブロー。まだまだいろいろとありそうですが、ぱっと思いつくのはこんな感じです。

Big blue Mandelbulb deep dive

それにしても、この美しいという概念はとても不思議なものです。たとえば、美しい景色や美しい花というのは、いわゆる視覚的な美。でも美しい解決方法、美しい数式、美しい生き方というふうに、様々なレベルで、この美しいという言葉は使われる。だから逆説的だけれども「キレイに汚れる」ということもありうるわけです。この場合、結果的に表面は汚いけれど、その汚れる過程や構造に、人々は美しさを見いだすという事でしょう。

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汚い色はない。全ての色は美しい。汚く見えるとしたら、配色が間違っている。そんなことを知人から聞かされてはっとした覚えがあります。そう考えると美しさとは、表面や中身というよりも、組み合わせや順番、すなわち構造に隠されている。僕らは美しいと感じるとき、その対象の構造を、無意識に見抜いているのでしょう。


「音と光、空間と時間」

いつだったか休日のとある日、午前中だけ仕事をして、午後から家族と散歩に出た日がありました。その日は快晴で、仕事からの開放感もあいまって、景色がとてもきれいに見えたのを覚えています。空には無数の雲。川沿いの土手から川を眺めると、水面が太陽の光を受けて輝いている。やわらかく暖かい日差しと、秋の匂いのする風。静かに草木が揺れる音だけが聞こえてくる。

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なんて事はない日常的な光景を見ながら、私はふと「これに匹敵する印象を人工的に作る事は不可能ではないか」と思ってしまいました。音と光と空間と時間が作り出す、圧倒的な印象。我々人間なんて、その中の一要素にすぎないと感じてしまったのです。ちょっと大げさですが、あのとき本当にそう思いました。そして実際にいまだにあの光景に勝るような作品に出会った事はないし、もちろん自分が作る事も出来ていません。


「何もないという存在」

私の住む仙台は雪の多い地域だと思います。最近はそれほど降らなくなってしまったのですが、子供の頃はたくさん雪遊びをした覚えがあります。雪国にとって雪は歓迎されるものではありません。交通網に大きな影響が出ますし、雪かきは大変。そして何よりも寒い。でも私は雪が好きなのです。

雪のふる夜。街灯の光で、舞い降りる雪がスノードームのように浮かび上がる。何もないと思っていた空間、普段は気にする事ものない、地上と空の「間」。その「間」がとたんにボリュームのあるモノとして感じられる時、不思議な高揚感を覚えます。そんなとき私は立ち止まって真上を眺める。しばらく降り続く雪を眺めていると、いつのまにか自分が空に向かって飛んでいるような気持ちになるのが好きなのです。

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何もないと思っていたものが、実はものすごく重要だったりします。たとえば空気がそう。なければ生きていていけない重要なものなのに、ふだんはその存在を意識しない。魚にとって水のようなもの。また数学はゼロの発見で飛躍的に進化したと言われています。無は無が存在するということで、無ではない。なんて禅問答的な考えかたもあります。

気付いているようで気付いていないもの。当たり前の存在こそが、実はかけがえのない存在なのかもしれません。


「変化の中で」

かつてのヨーロッパの都市は城壁に囲まれ、内部は建物が密集する要塞のようなものでした。それは敵からの攻撃を外壁でとどめ、中心にある大事なものを守る役目も果たしていたのです。しかし戦闘機の出現によって、状況が一変します。天井のない要塞は、空からの攻撃に全く対抗できないばかりか、逆に中心部にとって非常に危険な状況を作り出してしまったのです。

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私たちを取り巻く環境は日々変化しています。特にインターネットを軸とした社会の仕組みの変化は、もしかすると飛行機の出現のようなものなのかもしれません。だとするとこれまでの常識には疑問を持ったほうがいいのでしょう。もはや、これまでの考え方や枠組みは、城壁のように我々自身を苦しめるものとなるからです。

Marshall McLuhan on YouTube

かつてメディア論でしられるマーシャルマクルーハンは「誰が水を発見したのか分からないが、魚ではないだろう」という言葉を残しています。確かに水の中からでは水の存在を知ることは難しい。自分を取り巻く環境に疑問を感じなければ、環境そのものに関心が無くなります。台風の目と同じで、その中心部では本当の状況を把握できない。だとすると、状況を把握するためには、まずはその外に出て、もう一度、自分たちが置かれた状況を客観的に見つめる必要があるのでしょう。


「永遠の過程」

忙しい毎日の中で、本当にまれではありますが、立ち止まりながらゆっくり歩く事があります。もちろんゆっくり歩くと目的地までの時間はかかりますが、いつも見過ごしていたものが突然目に入ってくるようになるから不思議です。ちょっと大げさですが、まるで別世界。

たとえば歩道橋。いつもは階段を昇らなければならない厄介な存在でしかないのに、立ち止まってみると車の渋滞を上から眺めるのは意外に楽しかったりします。そういえば子供の頃は、歩道橋は楽しかった気がします。いつからだろう?いろいろと興味が無くなったのは。

Quartz Composer Book

Quartz Composerのように動き続けるリアルタイムの映像に触れていると、未完成と完成というものの境界線が曖昧になります。ちょっとアルゴリズムを変更するだけで、その作品ががらっと変わってしまうから。ゆっくりと変化し、永遠に過程のままの作品。そんな過程そのものを作品にしていくというのが、今の自分にとって一番面白い。

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そもそも完成なんて、時間の流れの中で私たちが必死にしがみつくための杭のようなもの? そういえば自然には完成なんかなくて、すべては変化の過程。しかも完成がないってことは、そもそも過程でもないんですね。




さて、これで私の連載は終わります。twitterのような短い言葉によるリアルタイムコミュニケーションも魅力がありますが、やはり、まとまった文章を書くのは自分に向き合うのに良いと思います。(ちなみに私のtwitterアカウントは「@zuga」です)。あらためて、このような機会をいただいて、ありがとうございました。それではまたどこかで!

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