センボーのブログ

「#BCTION #10F」について

2014年に四谷の廃ビルで行われた「BCTION」という展覧会のカタログのために書いた、拙作「#BCTION #10F」についてのテキストを掲載します。

展示終了後にカタログのための論考を主催者から依頼され、以下のものを書いたのだが、
出来上がったカタログには掲載されてなかった。その後Webでの掲載があるという話を聞いていたが、それも半年以上たったけど音沙汰無し。
なので、ここに置いておきます。
それなりに時間をかけて書いたものなので、もったいないので。



「#BCTION #10F」について

僕たちエキソニモがBCTIONに参加することになったのは、同展にも参加しているアーティスト「HOUXO QUE」から声がかかったからだ。HOUXO QUEとは、CBCNET(アート&デザインの情報ポータルサイト)の運営するBlogに共に参加する関係であったり、その周辺のインターネット界隈のイベントなどでもよく会うことがあり、もともと親交があった。しかし、QUEからこのような形の誘いは始めてだったし、内容を聞くと、自分たちの今まで関わってきたような人達とは違うタイプのアーティストが集まる展示ということで、新しい出会いや可能性を感じて、二つ返事で承諾したのを覚えている。

そうは言っても、誤解を恐れずに言えば「ストリートアート」系のアーティストが大集結しているBCTIONで、自分たちが何をやるべきなのか、何ができるのか、ということについて、一から考えないといけなかった。参加を決めてからQUEとはFacebookのメッセージを使って連日いろいろな議論を行なった。

そんな中で明らかになったのが、主にQUEがキュレーションしていた9階を中心とした参加アーティスト達はある種、BCTIONのメインストリームから外れたスタンスを持っているアーティスト達だということだった。エキソニモ、ユニットSD duet with ヌケメ、ヤンツー、ボルタネクスト5、MEGURU YAMAGUCHI、SSSK (SuwaSayaka+ShogoKawasaki)、そしてHOUXO QUE、全員に共通しているのはインターネットを活動の(または生活の)重要な拠点としている、もっと言えば、インターネットが血肉となっているようなアーティスト達だ。

その時、自分の中である構図が浮かんだ。9階建てのビルの異質な部分としての9階。物理的に観客は1階から登っていき、最後に到達するのが9階。そしてそこが一番インターネットに近い。であれば、その上にはインターネットそのものがあるのではないだろうか。ビルの最上階の更に上に、存在しない階「10階」があり、それはインターネットそのものであるという構造。四ツ谷の廃ビルを物理空間と情報空間でサンドイッチすることで、ビル自体を2重化された空間にすることができるのではないだろうか、という妄想を巡らせた。

ここに至るまでには、別の経緯もあった。実はBCTIONに参加すると決めてからスケジュールを確認すると、自分自身が会場に行くことができるのが、会期の中頃であることが判明、オープニングどころか設営にも物理的に参加できないことが判明したのだ。その物理的な困難さは、展覧会への参加手順を根本から考え直さないといけない状況を生んだ。そんな状況に悩みながら、日々Instagramにあげられ続ける#BCTIONハッシュタグが付けられた、気合の入った設営風景を見続けていた。会場の壁という壁に増殖していく鮮烈なグラフィック。会期が近づくにつれて、追い詰められていく参加アーティスト達の姿、その熱い空気感はハッシュタグ越しにも十分伝わってきた。そして物理的に離れた自分自身がそこに飛び込めない疎外感、熱気に煽られながらも、全体像を第三者として眺めている自分自身。その目線から生まれたのが拙作「#BCTION #10F (http://exonemo.com/bction/)」なのだ。

「#BCTION #10F」は、#BCTIONハッシュタグに「#10F」を追加する形で、インターネット上のBCTIONのイメージに介入していくプロジェクトだ。プロジェクトはBCTIONビルの10階で開催されている架空の展覧会という形を取っている。プロジェクトサイト(http://exonemo.com/bction/)を訪れると、サイト上で#BCTIONハッシュタグの画像をリミックスしてネット上に再放流することができる。リミックスにかかる手間を最大限にシンプル化し、わずか数秒〜十数秒でランダムなエフェクトが掛かったミックス画像を作ることができる。その画像をネットでシェアすれば、ユーザー名が自動的に取り込まれて、10階で展示をする参加アーティストとしてサイト上に掲示される。基本的に#BCTIONタグの付けられた画像同士をミックスする仕組みだが、自分の手持ちの画像を混ぜることもできることから、BCTIONとは関係のない画像が混ざってくる可能性も残している。iPhoneやAndroidからも気軽に参加できるように作った。

この仕組みを実現するに辺り、気になっていたこととしては、ネット上で画像が“ネタ”としてドライブすることで、本家の参加アーティストたちに不快な思いをさせてしまう可能性があることだ。一度このプラットフォームをリリースしてしまえば、そこに歯止めをかけることはできない。がしかし、そのような事故も許容できるであろうという確信を自分の中では「ストリートアート」という言葉の中に見ていた。ストリートアートとは本来、ストリートで繰り広げられる違法行為であり、作品は消される可能性や書き換えられる可能性に対して、いつでも開かれている。

大山エンリコイサム氏がTwitter上で指摘したように、「ストリートアート」と言う言葉をBCTIONに当てはめるのは乱暴であるという見方もある。そして実際、ストリートアートから派生した流れの中には、ギャラリーなどで作品を展示するという形に向かっているものも多い。そしてどちらかと言うとBCTIONも廃ビルを使っているとはいえ、あくまで保護されたギャラリー空間に作品を展示している状態だといえる。そこでは勝手に作品を書き換えたり、消したりすることは想定されていない。

そんな保護されたアートに対しても、ネットは非破壊的な方法で元々の「ストリート」の持つ暴力性を回想させる力があるのではないかと考えた。ネットで書き換えられるイメージは、現実の壁のグラフィックを変化させることはない。しかしネットと現実がレイヤーの様に重なり二重化された空間の上では、イメージそのものではなく、それが参照する意味性を書き換えることは可能かもしれない。それは新しい「ストリートアート」の可能性を表すのではないか。そこが「#BCTION #10F」の挑戦でもあったのだ。

「10階」は展覧会のオープンと同時にリリースされ、QUEなどの熱心なサポートもあり、ネット上で徐々に参加者を増やしていった。10階に上げられる画像は ハッシュタグ#10Fが追加されるわけだが、それはつまり、#BCTIONでサーチをしている人の結果にも混ざり、10階を知らない人の目にも入ってしまうことになる。最初は関係者中心で展開していたため、わりと大人しめに推移していたが、ある日、ミュージシャンの「gigandect」がネタ的な画像を大量に投下(BOMB)してきたことで、流れが変わった。関係者がヒヤヒヤしながら見守る中、今度はそのネタを打ち消すようなミックスが投稿され始める。その瞬間から10階は祝祭的な空気を帯び始めた。それはストリートがストリートとして再確認されたかのような瞬間だった。

本展参加アーティストである「佐々木あらら」は、壁に書かれた詩である自身の作品を、あえて10階で使いやすいように撮影してネットにアップロードしていたと言う(そしてその思惑通り、あららの作品は10階定番の素材になっていった)。またインターフェイス研究やネットアート研究者である「水野勝仁」はBCTIONの会場を訪れた時に、10階で使いやすいイメージを撮影しようという意識が常に働いていたと言う。

また、見ず知らずの熱心かつ、センスが光る投稿者「ゾンビタロット占い師 TAZN」など、名物プレイヤーが現れ始める。会期中(そして会期が終わった後でも)偶発的に勃発するTAZNとQUEの画像によるミックス合戦は、ミュージシャンによる高度なジャムセッションに近い、新しいイメージ言語による会話を見ているようだった。

このような、イメージによる他者同士の会話というのは「ストリートアート」の基本なのではないだろうか。それは匿名的かつ、異なる文脈が偶発的に出会い、コミュニケーションが発生するというストリートの前提に立っているからだ。また、BCTIONが終わって数カ月後になるが、自称イスラム国(ISIS)による日本人人質事件が起きた時に、Twitterにあふれた「#ISISクソコラグランプリ」というムーブメントにも関連性を見出すことができるだろう。筆者は決してこの事例に対してポジティブな印象は持っていない(そこには事件当事者に対する想像力が決定的に欠けており、逆にそこにネットの限界が表れてしまっていると感じている)のだが、現実とネットがレイヤーのように重なり合う状況こそが現実のリアリティであり、既にネットこそが他者と出会う現場=ストリートになっている現状を見ることができる。

「#BCTION #10F」は我々の予想を上回る(そして予想とは違った)展開を見せてくれた。最終的に参加アーティストは、SNSアカウント単位で300名に達した。そして、ネットを通じた高速な画像処理によるコミュニケーションの可能性など、幾つかの興味深い視点を提示してくれた。展覧会というものは、現場を中心としたコミュニケーションにこそ意味があるものだが、そこにネットのプラットフォームが覆いかぶさることで、空間の持つポテンシャルをアップデートできると感じた。#10Fで実験された事の成果を、咀嚼しつつ、また新しい形で今後も展開して行きたいと思っている。


パフォーマンス

ある日、5歳の娘が仕事部屋に入ってきて、
置いてあった新品のマウスの箱の前で立ち止まり、
マウスに目を落としながら、低めのトーンで聞いてきた。

「パパ、なんでこれ、壊したの?」
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身体感覚

昔スケボーを始めたころ、アクセル・ストールという技を練習していた。

どういう技かというと、ベーシックな技なんだけど、
ちょっと高くなった段差のようなところに、Truck(ウィールが取り付けられた金具の部分)のハンドルの部分で乗っかるような技。

写真だとこんな感じのこと


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インターネットトリアリティ



インターネットとリアルについて最近考えていた。 More »


光るグラフィック展 – 動かすということを考える

「光るグラフィック展」のオープニングに行ってきた。
CMYK(グラフィック)とRGB(スクリーン)との対比がテーマになってる野心的な試みで、セミトラの田中くんが企画に携わっている。


http://rcc.recruit.co.jp/g8/exhibition/g8_exh_201402/g8_exh_201402.html
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シンギュラリティ


考察メモ

シンギュラリティ -技術的特異点という概念がある。
このままコンピュータが進化していくと、いずれ人間の知能を超える時がくる。
そして、超えて以降は、新しい進化は、人類より知能が高いコンピュータが担い、
人間を置いてコンピュータが勝手に進化していくフェーズに入る。
技術の革新もすべてコンピュータが進めていくから人類がお役御免になるという。
その超えた時点=特異点=シンギュラリティという。
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『水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ』へ

水野勝仁さんが
『エキソニモの「猿へ」』を読み解く 〜 水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ
というエントリーで、いま開催中の個展への考察を書いてくれていた。

非常に興味深かったので、アンサーブログを書きます。

2013-11-29 18.55.35
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いいもの

ものを作ったりするようなことを続けていると、
世に出ている作品と接した時、
自分のものさしとはいえ「これはいい」「これはよくない」ということが
見えるようになってくる。

そうなると出くわすのが
「え、これ全然よくないのに、なんでこんなにウケてるの!?」
とか
「こっちのが断然いいのに、なぜ無視されてるの?」
という状況だ。
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個展やります

実はいままで九州で展示したことがなくて、
山口のYCAMでは何度もやっているんだけど、山口より西側に行けたことがなかったんですよね。

今回、三菱地所アルティアムというギャラリーから声がかかり、
九州で初めて、しかも個展をやることになりました。
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僕が九州に移動した理由

3.11の震災の直後から九州に引っ越しした。

今まであんまりその事について話をしたりする機会もなかったし、
プライベートな理由なので率先して話すことも無かったけど、
一応書いておくのもいいかなと思いここに記しておく。
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