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『エキソニモの「猿へ」』を読み解く 〜 水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ

November 28, 2013(Thu)|

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2013日12月1日まで福岡のギャラリー、三菱地所アルティアムにて開催されているエキソニモによる個展『エキソニモの「猿へ」』。今回の展覧会は初期から現在までの代表作を含む作品を再構成し、新たな切り口からエキソニモの魅力に迫る回顧展とも言える機会となっている。

今回、本展やエキソニモの作品を読み解いていくために、ICCでのインターネット・リアリティ研究会で共にし、自身のブログでもエキソニモの作品について考察を数多く執筆している水野勝仁さんに今回の個展を通じて見えてきたものを伺ってみた。
CBCNETでの過去の連載やブログなどと紐付け、少し違った視点での興味深い考察となっている。

インターネット創世記から普通の人は素通りしてしまうようなところに隙間を見つけ、価値をひっくり返してしまうエキソニモの作品たち。彼らの作品や活動をより深く楽しむための手がかりになればと思う。
また、メディア芸術カレントコンテンツのサイトにも水野さんによる展覧会全体のまとめも上がっているのでこちらも合わせてご覧頂きたい。




《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ


1泊2日の福岡旅行で「エキソニモの猿へ」を3回見に行きました。その3回目にそれは起きました。

動きをミリセカンド単位で決められたマウスカーソルがデスクトップを自由自在に演奏していく《DesktopBAM》が「ミス」をしたのです。軽快にビートを刻んでいくカーソルのクリックする位置がズレ、普段は起動しないiPhotoが立ち上がり、これまで何回か見ていたときとは異なる音が鳴っています。「《DesktopBAM》がミスった!」と、私は即座に撮影しました。これがその映像です。





撮影をしながら、会場の人に「《DesktopBAM》がミスりました」と伝えにいこうかなどうか迷いました。いや、ミスっているので音もいつもと違うから、係の人もすぐ来るはずだと思っていましたが、結局、誰も来ませんでした。そうしているうちに《DesktopBAM》はiPhotoを終了して、いつもの演奏に戻って行きました。なので、その時《DesktopBAM》がミスったのを見ていたのは、私ただ一人でした。「奇跡」と出会った気がしました。

私はこのときまでに5回ほど《DesktopBAM》を通しで見ているから、そのとき目の前のMacbook Airで起こっていることがいつもとは異なることがわかりました。けれど、はじめて《DesktopBAM》を見た人は、それが「ミス」なのかどうかもわからないではないでしょうか。そもそも「カーソル」がヒトの手を介さず動いている時点で怪しいので、そこに興味がいってしまって、それが「正常」に動いているのかはわりとどうでもいいことなのかもしれません。


過去の《DesktopBAM》のライブの様子

《DesktopBAM》をつくったエキソニモにとってはどうでなのでしょうか。彼らにとっては「ミス」は喜ばしいもののような気がします。そこまで言えなくても、少なくとも受け容れられるものと考えているような気がします。いやいや、「水野さんが見たのは、ミスでも何でもなくて、単に起こることだよ」と言われるような気もします。エキソニモのひとりである千房けん輔さんはCBCNET内にある「センボーのブログ」で次のように《DesktopBAM》について書いています。

カーソルのオートメーションは、GUIの上で動いているだけに、その瞬間瞬間のマシンの状態によって、かなりタイミングが変わってしまうのだ。走らせるたびに、毎回微妙に挙動が違うし、それが音楽を演奏するようなシビアさには追いついていない。でもその拙い感じが、僕らとしてはBambaataaが一生懸命つなぐレコードの如く、いいグルーブを生んでいると思っている。


ここで書かれているように、《DesktopBAM》は「コンピュータ」のように「完璧」に演奏をこなすことが稀な作品だったわけです。その後、マシンのスペックがあがってほとんど失敗することがなくなったとブログに書かれています。しかしそれでも、《DesktopBAM》は「完璧」でなく「ときたま」ミスるわけですが、それは「ミス」なのでしょうか。コンピュータはプログラムによって与えられた条件を遂行していくだけで、そこに生じたちょっとしたズレが引き起こす一連の挙動を「ミス」と考えるのは、見ている人の勝手な想像にすぎないとも言えます。

千房さんが「センボーのブログ」の前にCBCNETの「Dots & Lines」で連載していたエッセイに「ウィ~ア~ヒュ~マンビ~イング」と題されたスパム防止で使われる「CAPTCHA」を使って書かれた回があります。CAPTCHAで結構な長さのテキストが提示されていて、それを読み取って、下のテキスト欄に入力するようになっているですが、これが意外と難しい。ちょっとでも間違うと「あなたはロボットです」とコンピュータに言われる。間違う度に「あなたはロボットです」と言われる。でも、ウェブページの「ソース」を見ると、そこにまるまるそのテキストが書いてあったりします。それをコピペして「Submit」すれば「GOOD JOB!」と褒められます。そして、「ウィ~ア~ヒュ~マンビ~イング」のページの最後には、

● 人間っていつも表層ばかり見ていますが、ロボット達はソースの方を見てるんですよね。それではまた!!


と書かれています。《DesktopBAM》を見ていて、そこに「ミス」が起こったと認識した私はまさに表層しか見ていなかったのではないでしょうか。その「ソース」を見ると、カーソルの位置のちょっとしたズレによって起動したiPhotoを終了して演奏を続けていくことが書かれているかもしれません。《DesktopBAM》で表層の挙動に喜んだ私はとても人間的な「人間」なのでしょう、でも、このエッセイでは、CAPTCHAが見える表層だけを見ていると何度も間違えて「あなたはロボットです」と言われて、普段は見ない「ソース」を見ると「Human being」と褒められる。なんかヒトであることと、ロボットであることが逆転したかのように感じます。

sembo03_textWikipediaの「CAPTCHA」の項目には、「コンピュータがテストを監督することから、人間が監督する標準的なチューリングテストとの対比として、CAPTCHAはときに逆チューリングテストとも呼ばれる」と書かれています。ディスプレイの向こう側でキーボードを叩く存在がヒトであるかどうかを、コンピュータがテストする。これはどこかエキソニモの作品に通じるところがあります。エキソニモはコンピュータという「間違えない」とされているマシンが「ミス」をするようなギリギリのラインを作品化します。だから、エキソニモの「歴史はPCのクラッシュと共にあったわけ」です。それはコンピュータがヒトのような「ミス」をする存在になるということです。つまり、マシンがヒトとなるのです。ときおり「ミス」しながらカーソルを動かし続ける「ヒト」、キーボードを叩き続ける「ヒト」を具体化しているのがエキソニモの作品群と言えます。そしてそれらは、作品を構成するコンピュータに対して「ヒト」らしき存在を見ている人が見出だせるかどうかのテストとしても機能しています。特に、今回の展示の最終セクション「2009」に展示された《DesktopBAM》と連作「ゴットは、存在する。」シリーズには「マシンのヒト化」が強く出ています。《DesktopBAM》は既に見てきましたが、「ゴットは、存在する。」シリーズには重ねわせたふたつのマウスがカーソルを動かす《祈》、スペースキーの上に置かれたオブジェが「かみ」の変換候補をループさせる《迷》といった作品があり、これらも《DesktopBAM》と同じようにヒトが触れていないにもかかわらず、カーソルは動き、キーボードは押されていて、そしてそのタイトルからもコンピュータがヒト化されています。同時に作品が示すコンピュータの「ヒト化」を読み取れる「あなた」は「ヒトがつくってきた意味の世界で生きているヒトですよ」とチューリングテストの監督者=エキソニモに言われているようです。

しかし、今回の展示タイトルは「エキソニモの猿へ」です。2009年の《DesktopBAM》や「ゴットは、存在する。」から4年後の回顧展的個展のタイトルに「猿」が出てきます。そして、この「猿」という言葉自体をエキソニモのひとつの作品として考えてみると面白いのではないでしょうか。それはエキソニモの作品の延長に「猿」がでてくることを考えてみることです。《DesktopBAM》や《祈》、《迷》で使われているコンピュータはヒトがつくりだした「意味の世界」から解放されています。つまり、「祈」「迷」といった言葉が持つ意味はコンピュータ自体が行っている演算・行為とは関係ありません。そこにそれらの意味を見出すのはあくまでヒトであって、コンピュータ自体はヒトではなくて意味から解放された「猿」になっているのかもしれません。だから、コンピュータはカーソルを動かし続ける「猿」、キーボードを叩き続ける「猿」であるとも言えます。「あなた」は猿をヒトと間違えたことになります。もしかしたら、意味に囚われすぎているヒトやコードに縛られているコンピュータよりも猿のほうがチューリングテストの監督者に向いているのかもしれません。このように考えてくると、チューリングテストの監督者がエキソニモというヒトのユニットではなくなり、ヒトでもなくマシンでもなく、「表層」も「ソース」も関係ない猿がテストの監督者となって「キーキー」と叫びながら、ディスプレイの向こう側にいる存在を「ヒトなのか/コンピュータなのか/猿なのか」を決めているような不思議な感じになってきます。エキソニモの作品を通して「猿へ」メッセージを送り、猿にその存在のあり方をジャッジされる。

ヒトとコンピュータとの関係を考えていくと、最後は「猿」が出てきてしまう。それは「ヒト/コンピュータ」という二項対立を崩す力をもっていて、この世界に「コンピュータ」が出てきた意味を「猿」というヒトでもコンピュータでもない視点からもう一度考えてみたらと問いかけているようです。「猿」という視点がどういったものかはまだわかりません。でも、ヒトとコンピュータとを巡る思考が閉塞的な状況になっている今だからこそ、「猿」から考え始める価値はありそうです。


text by 水野勝仁

メディア芸術カレントコンテンツ:
http://mediag.jp/news/cat3/post-300.html

ブログ:
http://touch-touch-touch.blogspot.jp/

Information

13-07a-exonemoエキソニモの「猿へ」
http://artium.jp/exhi/next.html

会 期:2013年 11月2日(土) – 12月1日(日) ※休館日 11月19日(火)
会館:10:00 ~ 20:00 ※初日 11/2 のみ 18:00 スタート・入場無料
会 場:三菱地所アルティアム(イムズ 8F)
福岡県福岡市中央区天神1-7-11 イムズ8F



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