最初のエントリで僕が書いたのは、匿名で複数の作者によって作られる地方色の豊かなGIFやMIDIを含むweb上での表現スタイルをまとめて「ウェブ民藝品」などと読んでみて、柳宗悦的に捕えてみようという内容だった。そして、そのような活動を既にはじめている、オリア・リアリナとライダー・リップスという2人のプロネットサーファーも紹介した。今回はその続きである。


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先日、このウェブ民藝品の話をある編集者の方とする機会があって、そこで 「トマソンのような感じがしますね。」というご指摘をもらった。エントリの最後に “民藝” と “トマソン” の定義が曖昧になってしまったと、反省していたとおり、この2つが、僕の稚拙な文章だとどうも似てしまっている。とくに物質性の薄いネット上ではこれらの定義が見た目で判断しにくいため余計に区別が付きにくくなってしまうのだとも思う。

トマソンの例 Wikipediaより

ご存知の方も多いと思うが、“トマソン” というのは、1972年に赤瀬川源平らが「路上観察」の中から、見いだした考えかたで、宙ぶらりんになってスタートもゴールもない階段や、コンクリートの壁から突如飛びでたドアノブなどのことを差す言葉だ。作家の意図によって作られる作品、を超えた芸術品といった意味で、超芸術トマソンといわれている。 ( ちなみに、シュールな看板や広告をまとめたVOWシリーズとこの超芸術トマソンが、僕の小学校時代の愛読書であった。 )

トマソンのように、本来あったはずの目的を失しなってしまったオブジェクトたちの性質は、カントの言う “目的なき合目的性” という概念に通じるものがある。 目的がないのだけれど、どこか、目的に合っているように思わせる性質という意味で、判断力批判の中に “美とは目的なき合目的性である” という記述がある。

たとえば、これをトマソンを通して考えてみると、上の写真ような、鉄柱の半ばから階段が絡みつくようなオブジェクトは、階段に本来あったその目的を失った彫刻作品のようにも見えてくる。階段という機能を持ちながら上下階がなく、看板という機能を持ちながら、店がなくなってしまった不気味さと滑稽さが、よくできたダジャレのような雰囲気をまとってただずんでいる姿は、人の意図を超えた、芸術作品という風に思えてしまうのだ。 ( ブログのお隣さんで実家3Dなどの作者である、作家の谷口暁彦が2010年に企画し、僕も参加した redundunt web というオンライン企画展のコンセプトはこのカントの概念を引用していた。 )


yhassyさんによる Adobe Photoshop の UI に関するつぶやき より

そして先日、SLNの土屋さんのブログで読んで知った「いいえ」をGoogleで検索すると、Yahooがヒットする。という現象は 大変に衝撃的で、実にウェブトマソン的な現象だと感じた。

他にも「@yhassy さんによる Adobe Photoshop の UI に関するつぶやき」では、Photoshopのユーザインターフェースにみられる矛盾点を丁寧に見つけだし、解説している。こちらもデジタル路上観察、といった感じで非常に面白い。これは今和次郎の考現学のような視点にも重なるところがある。そして、今和次郎は柳宗悦とも同時期に活躍していて、実際に交流もあったようだし、考古学の方法を現代に適応したという意味では Internet Archaeology ( インターネット考古学 ) ライダーリップスとも関連が感じられる。

で、この2つの「Googleといいえの関係」や「PsのUI」は、民藝的ではなくて、“トマソン的” だということなのですが、またまた疲れてしまって眠いので、その事はまた次回に書きます。すみません。

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そういえば、先週末シャルロットペリアン展を見に鎌倉に行った後に、ふと立ち寄った文学館。窓から庭園〜街〜海と一望できるロケーションが、大げさな景色で驚きました。これからの、寒くて空気の澄んだ冬の日にはお勧めです。