辞書は素晴らしい。作為に満ちた起承転結も、不自然な伏線も存在しない。膨大なページ数に、無重力の言葉たちが整然と羅列されている。紙質もいい。バラバラと辞書をめくるだけで、知識の襞(ひだ)が増えてゆく感覚がする。要するに、ちょっと賢くなった気分を味わうことができる。
という訳で今回は、すっかり梅雨めいて辞書めいてきた僕が、オススメの辞書についてご紹介します。
1.反対語対照語辞典 柏書房
文字通り、反対語について書いてある辞書です。「現象」の反対は「本質」といった哲学的な言い回しから、「コンソメ」の反対は「ポタージュ」というフランス料理に関する豆知識まで、幅広く網羅してあります。例えば「正夢」の反対って知ってますか?「逆夢」っていうらしいです。夢で見たことと反対のことが起こるという意味。ちなみにこの辞書、一通り楽しんだあと、別の楽しみ方もできてお得です。もれなく付いてくるのは、「一概には言えない」っていう反対語を探す旅。僕が見つけたのは「食べ放題」の反対が「飲み放題」、「食い逃げ」の反対が「飲み逃げ」ってレトリック。「一概には言えない」ですよね。反対語という対を為す言葉を並べようとした場合、両者の距離の中間をどんなモノサシで測るかによって、まるで違う言葉になります。自分が持っているモノサシが正しいと、何を根拠にして言えるのか。その大いなる問いに、この辞書は読書体験を以てうっかり気付かせてくれます。ちなみのちなみに、この辞書には「一概」の反対語は記されていません。
2.単位の辞典 丸善 二村隆夫(監修)
日常生活に欠くことができない、単位についてまとめた辞書です。長さ・面積・体積・質量・密度・時間・温度など一般的なものから、科学・技術・商業などに用いられる多数の専門的な単位まで網羅してあります。マイクロシーベルトなんて単位が、福島の原発問題以降急に取沙汰されるようになりましたが、僕はこの辞書を熟読していたので既に知っていました。単位の先物市場を探る楽しみも確かにありますが、この辞書の醍醐味は、未知の単位に触れることにあると思います。例えば、臭気強度を表すTONという単位、ご存知だったでしょうか。Threshold Odor Numberの略で、40℃の水に保った無臭水に試験水を加えて明らかに臭気が感じられたときの希釈の倍数値で示すとされています。臭いに単位があったなんて、驚きです。この単位から生まれる物語が無数にありそう。そんな感じで、物語の種になりそうな臭いがプンプンする辞書、そう多くないと思います。ちなみに、ここでは紹介を省きますが、様々な単位を計測するための度量衡の辞典というのもあります。合わせて購入すると、発見と発明の違いが露骨に分かると思います。
3.罵詈雑言辞典 東京堂出版
心からムカつく相手を正しく怒らせるには、罵詈雑言の正しい用語と用法が必要です。この辞典さえあれば、どんな立場の人に対しても、たちまち罵声を浴びせることができます。...みたいな序文に誘われて興味を持って読み進めてみると、初めて目にする罵詈雑言が結構ありました。例えば、「だりむくれ」。酔って正体をなくし、ヘマをしたりクドクドと戯言を言う人を罵る言葉だそうです。でも、この言葉。僕が本当に腹を立てて使っても、きっと相手は理解してくれませんよね。要するに、この辞書を使ってうっかり勉強をしたところで、相手がその言葉を知らなければ何の効用もないということです。これって途轍もなく切ないです。あと、この辞書の編者が上品過ぎていけません。そもそも「敬語の辞書を作るには、その反対から作らないといけないと思った」という、動機そのものが罵詈雑言を生む負のエネルギーに満ちてない。要は向いてない。その切なさも含めてオススメです。
4.全日本リッチ感覚辞典
辞典という体裁はとっているものの、中身は全然辞典ジャナイ辞典というのが稀にあります。この全日本リッチ感覚辞典がまさにそれです。この辞典は二部構成(既にここからオカしい)になっていて、前編は【ケチ風土期ルーツ編】、後編は【マネー哲学実践編】。要するに辞典でもなければ、リッチ感覚の度合いがインデックス化されている訳でもない、辞典でも何でもない困った辞典。逆に面白いので前編から読み進めてみると、各地へのいわれなき罵詈雑言が酷いです。「広島県人は、人の美を見て喜ぶ精神が乏しい。そして何かと人の足を引っ張る。」「和歌山人は屈折していて、肉をよく食らう。」など、リッチ感覚というより、ケチ思想に関する言われなき記述が続く。岡山に至っては「先祖がこすい」など、時代を遡らないと回復しようのない名誉毀損まで飛び出します。本当に酷いの一言の辞典ですが、使い道はあります。ひとつ前の罵詈雑言辞典のカバーと差し替えるのです。するとどうでしょう。見違えるようないい塩梅。罵詈雑言辞典は毒味を増し、リッチ感覚辞典は金持ちに必要であろう上品さを取り戻します。購入するのであれば二冊同時をオススメします。二冊とも購入しないという手も、同時にオススメします。
5.青島幸男の紋切り型辞典
フロベールの紋切型辞典の体裁を借りつつ、青島流解釈で完全に書き直してしまった感じの辞典です。作家として、タレントとして、政治家として、最も乗っている時期に書かれたものだけあって、筆圧は随所に感じるものの、これも残念ながら辞典とは言えません。紋切り型の常套句を、紋切り型の毒舌で斬ってゆく。そこに目新しさがないというのは、逆に青島幸夫の分析・論述法が社会に消費されたからなのだと思います。消費されたということは、流行があったし、乱用があった。そういった時代考証のモノサシがある人であれば、楽しんで読める代物だと無責任に言っておきます。
6.感情表現辞典 東京堂出版 中村明(編)
人間の微妙な心理を描いた多様な用例を、近現代の作家197人の作品806編から選りすぐりの表現を集めたものです。3.4.5.と、辞典らしくない辞典の紹介が続きましたが、この辞典は大丈夫です。ちゃんと、辞典の体裁をした辞典です。名前の通り、人間の感情が事細かに索引されています。喜怒哀楽はもちろんのこと、怖・恥・厭・昂・安・驚に類する感情表現のオンパレード。うまく感情が出せない人、あるいはそれをうまく表現に落とし込めない人、この辞典が役に立つと思います。哀しいときに喜びの表現に触れたり、怒っている時に楽しい文章を眺めたりすると、気分が楽になるという副次的な使い方もできます。副次的な使い方に慣れると、ジョン・レノンが「70年代はレゲエの時代だ」と言った本当の理由も見えてくるのだと思います。
7.人物表現辞典 筑摩書房 中村明(編)
感情表現辞典と同じ編者による、人体の部位をインデックス化した辞典です。頭・目・顔・腕・胴・足などといった基本部位から、唇・耳・舌・首・背中・腋・乳房に至る末端部位まで、いわばフェティシズム全部乗せのような内容です。露骨に「性器」というカテゴリもあって、真っ先に確認するのはそういうページだったりしますが。引用元の大半が文学作品なのでさほどグロテスクではありませんでした。とりあえず、「性器 > 男性」「性器 > 女性」どちらのページにも、大江健三郎作品からの引用が多かったのが微笑ましかったです。
8.官能小説用語表現事典 永田守弘(編)
人物表現辞典でいうところの「性器」に該当する内容だけで全編お届けしたような、反り立つように力強い辞典です。ここに紹介される単語を羅列するだけで、人格を疑われるような語句が並んでいます。とりあえず、官能的な表現を目指すには、「肉」という漢字を乱発すると良さそうだということだけ、ここではお伝えておきます。ちなみに、この本の巻末が絶頂表現で構成されているのですが、更にその絶頂表現だけで一冊を綴じた官能小説「絶頂」表現用語用例辞典というのもあります。興味ある方は、人物表現辞典からの三段活用としてお楽しみください。
辞書を読む楽しみ、辞書を編む愉しみ。
辞書には必ず編者という役割の人がいて、その人の思いは全て「序文」に表れています。どういう文脈のなかで、どういう時代考証を経て、言葉や価値を再構築したのか。他のページで客観表現に徹していた分、横溢するような主観的表現がストレートに記されています。僕はこの序文が大好きです。辞書読みの醍醐味とも言えるでしょう。今、どんなジャンルにも、この「モノの見え方」「モノの見せ方」に関する発見と発明が求められている気がします。人様が編んだ辞書を眺める楽しみをひと通り堪能したら、次は自分自身の価値や見え方をどうやってカタチにするのか、考えてみるのも愉しいですよ。
という訳で、今回は辞書について書いてみました。次回は、映画について書きます。