Home > Dots & Lines > 飯田 竜太

2. Production of opening to the public by Night dream.

March 30, 2009
Ryuta iida
アーティスト、飯田竜太による連載第2回。キーワードは夢。

iida02_01.jpg
今回は「夢」というキーワードから話を進めてみたいと思います。
今回もなんの確証もなく個人の見解から書き綴っておりますので、至らない点など先にお詫び申し上げます。

作品を作っていく過程で、大事にしている事がいくつかあります。その中に「想像性からの発想」というものがあります。
日常を過ごす過程の中で、「もし、、、」のようなIf的要素。これを生活の中の想像性としてとらえ、そこから自分の表現領域に掘り下げ、自己脳に発想させる。

ほとんどの人が、漠然と普通にこんなプロセスを頭の中でしていると思うのですが、自分にとってこれは非常に大切な行為の一つで、この感覚が鈍ると何もできなくなる。何をしたら良いのかすら、わからなくなって消費者に陥ってしまうと思っているところがあります。

この課程は、日常の思考方向に全てがかかっていて、何を観るか、何を体験するかに大きく左右されます。しかしそれだけではなく、自分でその日常的な背景を作り出し、体現して想像し、発想の段階まで持って行く方法があることに、ある出来事をきっかけに気づきました。

それが眠りの中の「夢」でした。

夢の思考プロセスに気づいたのはある一夜でした。多分、眠りについてから起きるまでの時間は4時間ぐらい。でも感覚的には一瞬でした。目覚めが凄く良く、少しうたた寝した程度の感覚しか無いのです。
しかし睡眠していた4時間じゅう夢を見ていた事が記憶に残っていました。
身体的には一瞬で、感覚的には長時間。
身体の感覚と記憶の感覚にずれがあるのです。

寝始めの記憶と、寝覚めの記憶はつながる。
睡眠中の夢は一つの別カテゴリーの記憶として分けら記憶される。


一瞬の出来事としての睡眠の記憶。多分これは身体的つながりを意味するもの。長期間の時間的感覚として残されている睡眠中の記憶は、精神的な物だと僕は思っているのですが、これが「夢」に位置づけられる。

この二つが、別の事象として記憶される。


iida02_02.jpg
きっかけになった夢は、内容も臨場感もかなりリアルだったのもそのプロセスに気づくきっかけになりました。

夢が終わると同時に目が開いて、すぐ天井の風景が、夢の情景とすりかわって現実になる。体の疲労感と精神的な脱力感で気分はハイ状態だったのかもしれませんが、身体の記憶はさっき眠りについた前の記憶のままでした。当然疲れていて、眠気があり前日の疲労感が残っている状態です。その中に怒濤のように夢の記憶が追加されて行く感覚です。PCでいうアップデートされて行く感じです。

この感覚こそ、クリエイティブの根源的なものに近いモノかもしれないと感じています。自分で作り出した夢自体も、あたかも初めての風景のように出てきますが、個人が生きてきた環境や日常に起因している。
世界のルールが無いような夢を観るが、それもそのルールの基盤の上に生きるからこそ、その夢を見られるのであって、そのルールからは決して脱出はできない。(※1)

人は考えられる範疇の中からしか考えられるものを生み出せない。考えられないものは存在できないし理解することはできない。
理解することができることは、考えられることができ、現実に存在することができる。

夢の中で起こりうることは、現実の中に必ず起こりうる事象になり得る可能性がある。それがどんな形によって表現をされるかは別です。
実際の現実と、現実の事象は表層の違いを含みます。例えると、現実に起こる、または起こった「事故」と現実に起こるはずが無い(断定はできないがそういわれている)事故を映像の中で再現した「事故」(3次元で起こりうるルールにのっとったもの。また、映像のルールにのみ、のっとったもの)

想像性の中から発想することは、想像性がもつ世界からは抜け出せない。
ならその世界が広ければ広いほど、より多くを想像することができる。またその想像を発想するフィールドが多ければ多い程、より的確に表現できるのではないかと考えます。

想像の世界を増やすことは非常に簡単です。自分自身に刺激を増やし、情報を蓄積すれば良い。それは必ず想像の世界に反映されるでしょう。
しかし発想のフィールドは増やすべきではないと感じています。

自己完結の表現は思春期で終わっていて欲しい領域と考えているので、そもそも世に出す必要は無いと考えています。ではなぜ表現を世に出すのか。それは個の発想を表現によって共感することにあると考えています。それこそ、「夢」を話す行為そのものように。

単純に何かを観たことで、即発され行動に移し生産をおこなっても、それがこの社会の中で機能(=共有、共感)していくとは限りません。共感が、社会の中での機能という事であるなら、発想は、社会基盤のルールにしたがい、かつ機能する必要がある。機能を失った表現(表層)は単なるエゴにすぎないと考えます。

夢の中の出来事。身体とはなれた発想のスタンスは、個人意思の共有性を増し、
社会に機能する生産を手助けするような核になると感じるのです。
行動や動作としての「睡眠」ではなく、身体の部位である脳によって作り出された、疑いなき「夢」という仮想世界の思考プロセスに、おおきな可能性を感じずにはいられません。想像はルールなき自由のもとに大きく展開されるべきもの。発想は、それを落とし込む環境のルールに則り展開されるべきもの。そしてその表現はさらなる制約のなか行われていく。

見えなかったものが見える時代。見えている物も見えなくなる時代。この広大な想像の世界を、現実のリアルな世界に落とし込み、「夢」としての発想を体現させるための表現を行う為に生きたい。

よりリアルな、素材や方法はそれを想起させる装置として明覚に機能する。
だから僕は、本を切っているのかもしれません。
いつか人間が、身体や言語を越えた「何か」を獲得するまでは、このプロセスは続くのではないかと考えたりします。


※1ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』2・151〜3・01まで

CBCNET:WORK

CBCNET WORK



PAGETOP