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http://gyazo.com/05bc0516edaa9aa10c1875eec92c4e35

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思い出横丁の記事が面白かったので、レスポンスしてみます。


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読んでいたら、ふとこのテキストを思い出した。

芸術作品のなかにジョンとメアリーの、またはトリスタンとイゾルデの心を打つ運命しか見ようとせず、
それに自分の視点を合わせようとしかしない観客にとっては芸術作品は見えなくなってしまう。
トリスタンの悲しみは、それが真実のものと考えられる場合にのみ悲しみであり、同情をを呼びおこすことができるのだ。
けれども芸術の対象はそれが真実でない場合にのみ芸術なのだ……。
けれども芸術作品というガラス窓や透明体に自分の知覚装置を合わすことのできるひとびとはそう多くない。
ひとびとはそうはしないで、作品を透視して、作品があつかっている人間の現実を大いに楽しむ……。
十九世紀を通して芸術家たちはあまりにも不純な過程を辿ってきた。
彼らは厳密に審美的な要素を最低限にとどめ、作品はほとんど完全に人間の現実の仮構からなり立っていると考えた……。
こうした種類の作品(ロマン主義であろうと自然主義であろうと)は部分的にしか芸術作品でないし、芸術の対象でもない……。
たしかに十九世紀の芸術は一般にあまねく行きわたっていたが……それが芸術ではなくて、人生からの抜粋である。

オルテガ・イ・ガセット「芸術の非人間化」から

これはスーザン・ソンダクの「反解釈」内の芸術と道徳の関係を論じる上での注釈からの抜粋です。
ここでソンダクは芸術対道徳とゆう擬似命題について、それ自体が問いとして罠であり対立しうるものではないことを書いているのですが
それについては話がそれてしまいそうなのではずしておきましょう。

とかく、上の文章を踏まえたあとで後半で引用していた「生」の変換について考えてみると



あるいは再生することによる外部の指し示しは、父性の代替物とか残骸のようなもの?

 

と書いていましたがミメーシス(模倣)だからこそ、その本来あった機能を殺す。そしてその機能を自らに取り込むことで再生となる。
だが、再生された機能を現実のものと見ている限りはそれは芸術と捉えているわけではない。
そしてその機能とは別にそれ自体を現実のものと捉えないこと(この場合では”幽霊である”こと)で作品化される。
つまり、”夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる”もそれはあくまで機能は宿していてもやはりそれは現実ではないし、それ故に芸術の対象であるとも言える。
(日常の中で見る時計はモチーフではあっても、”芸術の対象”であるとは言えない)

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またさらにそこから自分の作品についても思考をしてみる。

一度写真に撮り、プリントしたキャンバスは再生か。
否。複製された様式は再生ではないがそこに新たに機能が追加される時にのみ再生たりえる。
そこに新たに機能が追加される時に現れる様式によって暴かれる残骸。それが作品の機能である。
現在の印刷技術上で思考してみるならそれは物質性ではないだろうか。
(絵の具の量感は印刷することが ─近い未来に可能であるとしても─ 今はまだできない。)
仮にそれを物質性であるとするならそれが作品の機能なのではないか。

このへんまで考えて、思考がぼんやりしてしまったのでとりあえずここまで。