最近、また「再生」が気になっている。



4月になって、武蔵美の映像学科での授業が始まって、自分の作品を見せたり、学生の作品とか作品プランを見て話す機会があって、そのなかで「再生」という言葉がまた気になってきた。「また」というのは、このCBC-NETで連載していた思い出横町情報科学芸術アカデミーの第二回のテキストの中でもこの「再生」がひとつのキーワードになっていたからだ。僕がその連載第二回で制作した作品は、本物の時計と、12時間撮影した時計の映像を併置するという作品だった。

「夜の12時をすぎてから明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる」


この作品を学生に見せる時に、僕はいつもこんな説明をしている。
「例えば、映像の中に映った男が、銃をこちらに向けて撃ってきても僕らは驚かないですよね。それが映像だと分かっているから。銃から発射された弾が画面から飛び出してこちらに飛んできたりしないということが分かっている。つまり、映像の中の銃というのは、本物の銃のもつ表象しか持っていなくて、実際に弾を発射するための物質的な機構とか構造を持たず、弾を発射する“機能”を失ってしまってるんですよね。それは、映像のもつ特性の1つだと言える。そこから僕は映像の中に映ってしまっていて、物質的な機構や構造が失われていてもなお、本来の物が持っていた“機能”を失わない物が何かと考えたんですね。で、それは時計だったわけです。映像の中の時計が、現在の時間と1秒もずれずに再生されるならば、その映像自体は過去に撮影されたものであっても現在を指示する時計となりうるんじゃないかなと思ったんです」

 

だいたいこんな感じ。この作品を作っていた時も、なぜ、死んだ人が蘇る「再生」と、映像を「再生」するという言葉が同じなのかという事を考えていた。端的に言ってしまえば、映像に記録されたものは、本来もっていた物質的な機構や構造がなくなり、機能しなくなって、死んでしまう事と同じだからじゃないだろうか。だから映像を再生することは「再生」に近い出来事になる。けれどそれは不完全な再生で、そのものの見た目、表象しか再生されない。だからこれを第二回のテキストでとりあげた「幽霊」として捉えていた。

 

最近また「再生」が気になってきたのは、以前考えていたこの辺りの事を忘れていて、授業で話したら思い出したからというのもあるけれど、これだけだと単純にただ思い出しただけで、また気になる要因にはならないわけで、もうひとつ、この映像の「再生」が気になりはじめたきっかけがあった。それは学生の作品プランについて話していた時だったと思う。話の流れの細かいところは忘れてしまったけれども、確か、映像に映ったものが画面内で完結せずに、画面に映っていない外側へ意識とかリアリティが続くためにはどうしたらいいのかというような話をしていた時で、その時に「生放送」の話になった。
「笑っていいとも」は生放送だから、CMになって「笑っていいとも」が画面に映らなくなっても、出演者がスタジオにいて雑談していたり、次のコーナーへの切り替えで慌ただしく準備しているんだろうなというような事が想像できる。CMが終わっても、そういった慌ただしさが伝わってくる。だから、CM中になっても、あるいはテレビを消してしまっても、「笑っていいとも」の出演者の存在の確かさみたいなものが残響のように残っている感じがする。「笑っていいとも」では、放送しているスタジオが「アルタ」であることを度々強調するし、日曜に放送している「笑っていいとも増刊号」はCM中の様子も放送していて、そういった場所とリアルタイムな時間性を強調する要素が、さらにその存在の残響のようなものを補強する役目を果たしている。で、そういった「笑っていいとも」の「強・生放送性」の影響で、その後に放送している「ごきげんよう」や「徹子の部屋」も生放送のように勘違いしてしまうという話もしていた。「ごきげんよう」や「徹子の部屋」もずっとスタジオの映像をあまり編集することなく冒頭から流し続けていて、CMの間もその時間が流れ続けているように感じる。この「生放送」も、「再生」と同じ「生」という字が使われていて、この「生」っていったいなんなんだろうと考え始めていた。

 

それで、もうひとつ、新宮一成の「夢分析」という本を最近読んでいたら、偶然この「生」をより考えさせられるようなきっかけになる内容にあたった。

我々は日本語で「生まれる」と言う。これは自動詞である。だがその語形をよく見ると、それは他動詞「生む」の受動態である。我々は普段何気なく自動詞として「生まれる」という言葉を使い、「私は東京で生まれました」などと言うのに慣れている。そして生まれたその瞬間から、すでに自己の根源的自発性と我々は徹底した受動体験(フロイトの言う「寄る辺なさ」)から自己が発したのだということを忘れているのだ。「生まれる」という日本語、あるいは「れる」という助動詞、受動と自発、そして尊敬さえ一度に言い表してしまうこの助動詞のからくりは、この忘却を日々更新しつづけていると同時に、そこで何が忘却されたのかをひそかに我々にもらしてもいる。
人間は、ごく早期に、受動的な体験を能動的な体験に変換し、しかもその変換を忘却する。すなわち、私は誰かによって「生まれ」た、つまり私を生んだ誰かがそこに在ったのであるが、私は、今度は自ら、その誰かの場にたち、その誰かが私に対してもっていたであろうような関係を、私自身に対して、意識の外から、演ずるようになるのである。
この変換の場に、フロイトはエディプス・コンプレックスの名で標識を立てたのである。この誰かというのは、父によって示される場所に他ならず、この場所において、私は、私自身を母から生ませる力を父から奪い取り、父を亡きものにして父になりかわったのである。エディプス・コンプレックスは、「父との同一化」と呼ばれるこのような変換過程によって、私を生ませた他者の欲望を、私が私自身にもつ欲望へと、構成してゆくことなのである。

 

ここでは、他動詞的に「生」まれてしまった主体が、「生きる事を欲する主体」を欲望し、手に入れるまでのプロセスというか、構造を書いているのだけれども、この「生」のありかたがエディプス・コンプレックスであるという事を言っている。簡単に言うと、人は、「親が生んだから生きている」ような受動的なありかたでは生きていられないはずで、もちろん「親が生んだから生きている」のは事実ではあるのだけれども、自らの意思で生きているんだという必然のようなあり方でないと生きている意味やモチベーションが見いだせない。だからそこで受動的な生から主体的、必然的な生への変換が行われる。その変換の過程で、知らずに自らの父を殺害し、父の代わりに王となったエディプスのように無意識に父を嫌悪、虚勢し、父になりかわって「私が私を再び生む」ようになる。新宮一成は夢分析の中でこのエディプス・コンプレックスの過程を、別の箇所で「もう一つの誕生日」と表現しているが、それを「再生」と言いかえ、映像の「再生」や「生放送」の「生」に、エディプス・コンプレックスの過程を当てはめて考えることで、この映像の特性みたいなものををより深く考えられるんじゃないか?と思えた。(僕が授業の中で映像で失われる機能について説明する時に「弾を発射する銃」を例えにだしていたのは偶然だけれども、わかりやすすぎるくらいに象徴的じゃないだろうか?)生放送、あるいは再生することによる外部の指し示しは、父性の代替物とか残骸のようなもの?書き始めてから間があいてしまい、思考がぼんやりしてしまったのでとりあえずここまで。