別にここは自叙伝みたいなものを書くための場所では全くないのだけど、書かなきゃと思うことがあったので、書きます。あけましておめでとうございます。
下記は、なんか説教臭いことを言いがちになってしまったおじさんが一番大事にしていることについての長文です。写真は、フィギュア作ったときのデータで、全く関係ない。



昨日、会社の若いスタッフに、いろいろと言わなければいけないことがあって、いろいろ言った。
これが、面白いことに、私が彼と同じくらいの年齢(23歳)で、デザイン事務所でバイトしていたときに、上司のデザイナーから言われたこととほとんど同じなのだ。
別に真似しているわけではないのだけど、思い出すと笑ってしまうくらい一緒で、おまけに、その上司と彼は同じ名字なのである。
13年かけて、私は彼女(当時の上司)と同じような言葉を吐くようになったわけで、それが良いことなのか悪いことなのかわからないけど、結局、彼女の影響を受けちゃっていたことは間違いない。

そのデザイン事務所に入る前は、オン・ザ・エッヂ、つまり、堀江さん=ホリエモン氏が社長だったライブドアの前身の会社、まだ10人くらいしかいなくて、これから成長していこうとしようとしていた頃だった。
その頃の堀江さんの印象は怖くて勢いがあって、どんどん仕事を進めていくけど、競馬の話は楽しそうにする、という感じだった。
あとは、よく、お昼ごはんに角煮を食っていた印象がある。

1998年のことだから、完全にネットの草創期で、オン・ザ・エッヂはその中で目立ちつつある、「ホームページ制作会社」だった。やっている人たちにしてみれば、制作会社みたいな意識は無くって、インターネットという新しい何かの周辺で何でもやる、という感じだった。会社の中にサーバがたくさん置いてあったし、バックエンドから(あの「ホリエモン」は、perl書かせるとすごいのだ。)フロントエンドまで、デザインや、当時バージョン2だったflashサイトまで、さらに競馬情報サイトの運営やオンラインゲームの運営まで、すごい少人数でやっていた。
データセンターにも手を出そうとしていたのだから、先見の明もすごくあったと思う、というか、あったからあれだけ成功したのだ。

私は、その会社に、一番下っ端として雇われた。ほんのちょっとだけ、HTMLが書けたからだ。当時、そこそこの個人ページをつくれる大学生はそんなにいなかったし、人手も足りなかったはずで、運良く入れてもらえた。

ダイヤルアップ接続が主流の時代。せいぜいISDNが出たてで、家庭でネットを繋ぐには「ぴーひょろろー。がーーーー」みたいな理不尽な効果音とともに、電話回線にいちいちつなぐ必要があった上に、電話代が普通にかかるのだ。「ネットにつなぎっぱなし」が当たり前の時代ではない。
そんな時代に、オン・ザ・エッヂには、高速なLAN回線が完備されていて(サーバが置いてある会社なんだから当然なのだけど)、これにはすごく驚いた。
「ネットし放題」であり、スピードが信じられないほど高速なのだ。

私はそこで、いわゆるバイトを始めた。パソコンが納入されればそれをせっせと運び、ケーブルを束ねろと言われればケーブルを束ね、来客があれば、お茶を出した。
サイバーエージェントの藤田社長が初めてオン・ザ・エッヂのオフィスに来社した際に、藤田さんにお茶を出したのは私である。
「わーなんかやる気ありそうな人が来たなー」と思ったものだ。ビットバレー全盛期である。
初代iMacが会社に届いて、会社みんなで盛り上がった日のこととかも良く覚えている。「Apple製品の新品の箱を開けた時のあの匂い」は、あの頃から変わらない。

そんな中、初めてHTMLをコーディングする仕事、というか正確には上の人が書いたコードを修正していく仕事をもらった。ほとんどのウェブサイトがテーブル組でできていた時代である。直属の上司に教わりながらどうにかこなした。
「よし、できた!」なんていって、上司にメールを出して帰った。見てくれは完璧だったのだ。

ところが翌朝、出社すると、上司に呼ばれて怒鳴られた。
私が修正したコードは、見てくれはうまく動いていたが、というか、IEではちゃんと見えていたが、今は懐かしいネットスケープでは、ぐちゃぐちゃに壊れていたらしいのだ。tdタグの閉じ忘れに始まって、テーブルの階層構造がぐちゃぐちゃになっていたとか、そういう感じだったらしい。
「あれから社長が徹夜して直したんだよ?!」と言われた。
今思えば、私はあのホリエモンに徹夜させたんだなあ、すげえなあ、なんて思うが、上司が怒るのも当たり前だし、堀江さんが怒るのも当たり前だ。

私は身も心もバイトでしかなかったので、あまり意に介さず、同じようなことを3回くらい繰り返して、毎回怒鳴られた。
完全に仕事がつまらなくなった。人間、怒られるとつまらなくなるし、出口が見えなくなる。モチベーションは無くなるし、隣の芝生も青く見える。
同じ時期に入った、ちょっと年上の新入社員がやりがいのありそうな仕事をやっているのを見て、ジェラシーを感じてしまったりもしていた。彼は、ホームページのスタッフリストにイラスト付きで掲載されているのに、私は名前だけだ。

当時その会社の花形は、デザイナーだった。私の上司もデザイナーだった。というか、今思えば、その方は制作ディレクションをしていたのだと思う。ワイヤーフレームとかそういう概念もろくにない時代で、手探りでホームページのつくり方をみんなで模索している状態だったのだろう(今もそうっちゃそうですが)。
しかし、一番面白そうな仕事をしていたのは「デザイナー」だった。

私はそのデザイナーの上司に頻繁に怒られた。
ここで反省してHTMLの勉強なりを寝る間も惜しんでやるとか、他の人ができないことを探してみるとか、そういう方向に行くと良いし、当時の私に言ってやりたいのだが、当時の私が至ったのは、もっと全然違う結論だった。

「デザインをやりたい」。
それが私が至った結論だった。なぜかと言うと、面白そうな仕事ばっかりしていて、かっこいいからだ。そもそも、「デザイナー」っていう響きが都会的だ。
「私、デザイナーやってます」って言いたい。デザイナーっぽくふるまいたい。
さらに私は、今思うとちょっと考えられない行動に出てしまう。

その上司に対して、「デザインをやりたい。そして社員にして欲しい。」と上申したのだ。先ほど書いた、ちょっと年上の新入社員へのジェラシーとか、不公平感みたいのもあった。「私を彼と同じように扱ってもバチは当たらないはずだ」くらいに思っていた。
私は(自分の「センス」みたいなものに、無意味な自信を持っていたけれど)、デザインの技能など無かったし、そもそも毎日堀江さんに徹夜させて怒鳴られている人間なのだ。さぞかし上司は驚いただろうなあと思う。

当然ながら却下というか、私のリクエストは一笑にふされ、そうこうしているうちに決定的な出来事があった。
会社の忘年会で、みんなでカラオケに行ったのだ。そこで、酔って上機嫌になった堀江社長が、スタッフ全員に、ひとりひとり、感謝の言葉を述べたのだ。
「◯◯さんは、今年は大きな仕事を仕上げてくれて、本当にありがとう」
「△△くんは、入ったばかりだけど、perl書くのは速いし、来年もがんばってね」

そして最後に私の番、何を言ってもらえるか期待していた。
「カンタくんは、特に何の役にも立ってない」
と言われた。一同大爆笑である。私も苦笑いしながら、すごく傷ついていた。
頑張っているつもりだった。なぜ頑張っているつもりだったのかがわからないのだが、頑張っているつもりだった。というか、お客さんにお茶を出したり、コピー取ったり、いろいろやってるじゃないか。なんなんだよソレ。

そのカラオケ大会の後、直属の上司が近づいてきて、私に言った。顔に不快感が出ていたのだろう。フォローのつもりで言ってくれたはずだ。
「社長、ああ言ってるけど、こないだカンタくんのこと褒めてたよ。サーバにテプラでラベリングするのが丁寧だったって。」
これも、私がいいおじさんになって思えば、誇るべきことなのだ。テプラでラベリングするのは大事な仕事だ。サーバが雑然と並んでいるオフィスで、サーバを識別しやすくすることができたのだ。それは、ロクにHTMLも書けない、一軍に上がれようのない私の分に見合った仕事だったはずだ。
しかし私は、馬鹿にされたと感じた。「俺はテプラ貼りじゃねえ、角煮野郎」と心底思った。
その忘年会を境にして、辞めた。上司は、止めてくれた。けど辞めた。

デザインをやりたかった。デザイナーになりたかった。
そして、次は実家の近所にあったデザイン事務所の門を叩いた。
ワンダフルというデザイン事務所だ。エディトリアルからウェブまで、幅広くデザインを手がけていて、かっこ良かった。
面接してくれることになった。デザインのポートフォリオなんてなかったので、そのちょっと前までやっていたバーテンのバイトの経験を活かして、面接でオリジナルカクテルをつくって提出した。

ラムベースで、ブルーキュラソー(青い酒)とかグレナデンシロップ(赤い液)とかを入れて、真っ黒なカクテルをつくって、「黒沢先生」という名前のオリジナルカクテルをつくった。小学一年のときの担任の名前である。

「なんかよくわかんないけど面白い」。社長に言われて、入れてもらうことになった。今や私も採用面接なんていうものをするようになって随分経つけれども、デザイナー志望の若い子が、面接で「黒沢先生」なんていうオリジナルカクテルをつくって出してきたら、もしかしたら血迷って採用してしまうかもしれない。確かに、面白い。

私は望みどおり、デザイナー見習いになった。社員になりたかったが、当然それは難しくて、バイトからスタート、ということになった。
当時のワンダフルには、羽瀬さん押本さんという、素晴らしいデザイナーがいらっしゃって、ものすごくかっこいい、前にいたオン・ザ・エッヂでつくっているよりも数段クールなウェブサイトをたくさん手がけていた。憧れた。
私と同時くらいに入ってきたのがあのタロアウトさんだ。
太郎さんは、LIGHTWAVEなんかも使えて、当時からすごく実力がある人だった。
そのさらにちょっと後には、その6年後くらいにイメージソースで一緒に働くことになる山春さんがデザイナーで入ってきた。当時は、今みたいなオブジェクト指向の匂いは全くしなかった。
要するに、世田谷の桜新町というサザエさん以外売りのない街に存在しながらも、とてもすごいデザイン事務所なのだ。

私はそこでウェブのデザインをやりたかった。しかし、ここで仰せつかったのは、エディトリアルデザインのアシスタントだった。
要するに、画像の切り抜きとか、QuarkXpressで必要要素を適当に並べとく作業などである。切り抜きというのは、要するにPhotoshopで、人の写真だったり、製品の写真だったりを形状に沿ってパスで抜いて、PhotoshopEPSとかに保存する作業である。

私はこの切り抜き作業が今も大好きである。この時代に、雑誌の「お寿司特集」のレイアウトのアシスタントをしたことがあって、300枚近いお寿司の画像を徹夜で切り抜き続けたことがあった。
ずーっとそれに没頭していられて、終わったときにはレゴブロックを組み上げたような達成感があって、好きだった。
今も、企画書用とかに画像を切り抜いたりする必要が出ると、ちょっと嬉しくてやってしまう。切り抜き作業は、ベジェ曲線のパスを形状にそって時計回りで引いていく人と、反時計回りで引く人がいるのだが、私は当時から一貫して反時計回りだ。

それは全然関係ないのだけれど、いつかウェブのデザインをやらせてもらえると思って、一生懸命やった。ほどなくして、ラフにレイアウトを組ませてもらえるようになった。直属の上司は、昨日私が説教をしたスタッフと同じ名字の女性デザイナーさんだ。
何度も何度も何度もダメ出しを食らって、徹夜して、結局締め切りになって上司に引き取られてしまって、怒られた。
私は当時から机がすごく汚くて、怒られた。ここでも、ほとんど年齢が違わない美大出の社員が、どんどん面白い仕事をやっていた(デザイン事務所では、東大生なんていう肩書きは、クソの役にも立たないのだ。)。

嫌になった。心が折れて、モチベーションが下がって、レイアウトもいい加減になってしまった。自分のレイアウトの悪いところなんて、全くわからなかったのだ。
当時自分がレイアウトしたものは、一部取ってあるのだけれど、爆笑レベルのクオリティである。

この段階で、上司から説教を食らった。内容は推して知るべしで、話が最初に戻るけれども、これが、昨日私がスタッフに(かなりきつい口調で)言ったことと、ほとんど同じなのだ。言っている間は気づかなかったけれど、さっき気づいた。
で、その後、ちょっとしてそのデザイン事務所も辞めてしまった。ウェブのデザインも、結局できなかった。

人間って不便な動物だなあと思う。13年経っても同じ光景を繰り広げてしまうんだなあと。というか、こういう光景は、いつも世界(というかたぶん日本)のどこかで繰り返されているんだなあと。
私は私で、彼に対して抱えていたフラストレーションをそのまま伝えたものだから、昨日からずっと落ち込んでしまって、疲れてしまって、とても嫌な気分になっていた。
すごく面倒くさいのだけど、組織で仕事をしていると、組織の言葉で伝えなきゃいけないことがどうしても出てきてしまうし、そういうことを言うのは超絶嫌な仕事だけど、誰かがやらなくてはいけない(ような気が、少なくとも私はする)。
別にそういう徒弟制度くさい上下関係みたいのを全肯定するわけでもないし、私らみたいのに憧れて来てくれるのは本当にありがたいと思っているのだけど、どうしようもないものはどうしようもないから、どうしようもないと伝えるしか無い。
会社のサービスレベルを落としたくないのは私だし、それは我欲に近いのかもしれない、なんていうことも思うけど。

彼は彼で、ものすごく嫌になっていて、前向きにもなれてないと思うし、私が言ったことなんて伝わってないだろうなあと思う。「テクニカルハゲ豚、机掃除しやがれ!」くらいには思っているだろう。
私はすごく嫌になって、後ろ向きになってしまって、結局会社から逃げてしまったし、堀江さんのことも、この上司のことも、前々回のブログ記事あたりの時代までずっと恨み続けていたし。

で、私がこんな自叙伝もどきを書くことで、しかもブログという公開された場所で何が言いたいのか。
まずは上記の二社でやらせてもらったことで得たスキルなんて、フォトショとイラレとQuarkのショートカットキーを覚えて、自分の切り抜き
スタイルとテプラの貼り方を身につけたことくらいで、全くどうってことない。

どこまでの年齢を「若者」っていうのか知らないけれど、20代前半とかで成功したり、起業したりとか、そういうのは凄いと思う。
なんだけれども、20代をほぼほぼしょうもない状態で過ごした人間からすると、別に成人したからといって自分がどうなりたいとか、どうなるとか、無理して規定する必要は無いし、自分探ししてもいいけど見つからなくったって良いと思う。
責任を放棄しても良いし、会社をズル休みしても良い。人に迷惑をかけまくっても良いし、誰かに嫉妬して恨んでも良い。そのぶん嫌な顔されるし落ち込むし仕事を失うのはしょうがないけど、どうにか食っていれば、盗んだり人を殺したりしなければ、それで良い。
だいたい36歳の私にしたって、いつまで今の仕事をしているべきなのか、よくわからなくなったりするのだ。

可能性なんていうのは、わけがわからないくらいたくさんある。
私は23歳のとき、切り抜き力くらいしか上げられなかったけど、おじさんになってからプログラムを始めて、さらにおじさんになってから広告やらクリエイティブやらの仕事を始めて、なんか知らないけどそれなりにやっている。
付け焼刃の塊みたいなものだから、自分の代わりなんていくらでもいると心底思っている。すごく大変だから代わって欲しいくらいだ。
だけど、誰かに求められたことに、何がしか応えられるようにはなっているから、最低限食えてもいるし、家族と一緒に暮らすこともできる。
けど、まだまだ、不満も不安もあって、ジタバタやっている。

20代でも、30代でも、もしかしたら40代以降でも、無理していろいろ決めちゃわないで、ジタバタしていれば良いのだと思う。
ジタバタさえしていれば、いきなり死んだとき、「あー楽しかった」って言えるに違いないのだ。
それが一番大事なことだとわかっているのに、それをちゃんと彼に伝えることができなかったし、私も忘れてたし、なんか、自分を決めつけてしまって自由じゃない人がたくさんいるから、こんなふうにここで書いてみた。
彼も自分も、これからどうするのかわからないけど、後悔しないようにジタバタすれば良いのだと思う。
お互いがんばりましょう。