今年入ってからずっと自閉気味で、ブログとか書ける感じではありませんでした。
あけましておめでとうございます。書きます。アルファブロガー目指します。

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先日、社員に、私がこの業界(どこからが業界なのかわからないし、今はインタラクティブ以外のことも結構やってるけど、たぶんインタラクティブ広告業界のこと)にちゃんと入った時期のことを話したら、それなりに受けたので、公開してみようかなと思う。
いわゆる、「おじさんの苦労話」にしかならないので、語ってもしょうもない気がするのだけど、参考にしてもらえるなら、嬉しいことだなあと。



私のことを昔から知らない方は結構驚かれるのだけれども、かなり最近の話である。

私は、いまちょうど、TIAA=東京インタラクティブアドアワードの審査をしている。この賞の審査をするのも3年目だ。今年で10回目、日本のインタラクティブ広告を表彰する賞としては、たぶん一番存在感を持っている賞なのではないかと思う。

今年も、たくさんの人がたくさんの時間をかけてつくったたくさんのインタラクティブなコンテンツが応募されている。
強制的にいろんなものを見て体験することになるので、これはすごく勉強になる。結構大変なのだが、本当に面白い。

私は、勝手ながらこのTIAAと因縁がある。というか、TIAAがなければこの業界に就職していなかっただろうし、広告の仕事なんかしていないだろうし、いま一緒に会社をやっている仲間とも出会わなかっただろうし、必然的に会社なんか作っていなかっただろう。今も雑誌のレイアウトや文字組をやっていただろう。

そう。私は7年前まで、エディトリアルデザインを中心に、フリーでデザインをやりながら、雑誌の編集部の片隅でDTPをやっていた(Quark Expressとか、InDesignとかがメインで使うソフトだった)。
HTMLは書けたし、インターネットはとても好きだったので、ちょこちょこウェブのデザインとコーディングはやっていたが、プログラムなどはほとんど書けなかったし、参考書を見てちょっとflashを触って、「Hello World」と表示させていたくらいのレベルだった。

インタラクティブ業界への就職活動を始めるちょうど1年前くらい、先んじてウェブ専門の会社で働いていた知人から、Uさんというデザイナーの方を紹介してもらった。この出来事には今でもとても感謝していて、その後1年ちょっと、就職するまでの間、Uさんと継続してお仕事していくことになる。Uさんはウェブ専門のデザイナーさんである。私はそもそも自分がデザイナーだったので、あまり他のデザイナーさんと協業することがなかった。

しかし、そのとき、知人はUさんに、私のことを「ActionScriptができる人」として紹介したのである。もちろん、上記のように、私はこの段階でそんなにプログラムが書ける人ではなかった。というか、ほとんど書けなかった。頑張ってムービークリップの座標を動かせたくらいのものだ。

しかし、知人の顔も立てなくてはいけない。Uさんは早速、ActionScriptの仕事の相談をしてくれた。私は、Uさんのリクエストに対して、だいたい「あーできますよ」なんて言って、お仕事を受けてしまったのだ。Uさんは素敵なデザインをする方だったし、何より仕事が面白そうだったのだ。
ちなみに、よく覚えているけれども、Uさんは最初のミーティングで「ナカムラユウゴみたいに」という言葉を2回くらい言った。私は適当に相槌を打っていたものの、畏れ多くも、中村勇吾さんという人の存在を全く知らなかったのである。
ちなみに、Uさんもこの記事を見るかもしれない。本当にごめんなさい。あの時点で、私は大してプログラムを書けませんでした。はったりかましました。

受注したのは、とある会社の採用ウェブサイトだった。
当時の最新版のflashのバージョンは、flashMX2004。ちょうどflash8が発売される1年くらい前である。ActionScript2.0が出てきて、定着し始めた頃だ。
しかし、私がそのとき持っていたflashの参考書は、忘れもしない、この本だった。この本がActionScript1.0ベースで書かれていたものだから、必然的にActionScript1.0でコードを書き始めた。というか、ActionScript2.0の存在を知らなかったのだ。

白井一寿さんが、prototypeを使って擬似3D表現をしていたり、サイクロイド曲線を描いていたりしているサンプルを見て、「うおー。なんじゃこりゃー!」と思ったものだ。ほとんど表現リッチなウェブサイトなんて見ていなかったので、そんな表現がブラウザ上でできることに興奮した。必死になって、集中して全部の行を理解した。
当時、なぜか白井さんのウェブサイト「flash effects」の存在だけは知っていて、「すっごいなあこれ」と思って眺めていたものである。

トザキケイイチさんが解説していたXMLの読み込み方とパースの仕方なども、最初は何のことかさっぱりわからなかったが、理解した。XMLが何なのかから理解しなくてはならなかった。理解して、「なんて便利なものなのか!」なんて思ったものだ。
余談だが、数年後にトザキさんとがっつりお仕事をすることになった際(今もお世話になっております)、私の中で「XMLの師匠」として神格化された存在だったトザキさんが、すっかりjson好きになっていて、XMLを全然使っていなかったのがショックだった笑。

そんなこんなで、この本1冊に関しては、雑誌の仕事をする傍ら(それなりにゆるいポジションで仕事をしていたので、編集部にいるときも、他の仕事を自由にやっていた。)、3日くらいでほぼほぼ理解した。仕事を受けてしまったので、必死だったのである。

あとは、覚えたてのイーズアウトアニメーションなどを駆使して、Uさんの指示に従ってどうにかこうにか外部読み込みの仕組みや動きを作っていった。this._x += (s-this._x)*0.5とか、そのくらいのものである。
このへんの動き系は、検索で引っかかった遠崎さんのブログとかに載っていた例文なども、かなり参考にした記憶がある(ような気がする)。
いろんなムービークリップに動きを定義するコードをコピペしまくってどうにか構築した。今思い出しても実にひどいコードである。オブジェクトみたいな概念が無い初心者には、ムービークリップ内にコードを書いてduplicateMovieClip(なつかしすぎる・・・)するような構造が直感的ではなかったのだ。
しかし、どうにか組み上げた。

お蔭様で、Uさんにも喜んで頂き、プロジェクトが終わった頃には、もうプログラマーとしての第一歩を踏み出すくらいのレベルにはなっていたのだと思う。
そして、非常に大変な経験だったが、何より面白かったのである。

何が面白かったのかというと、モーションをプログラミングするという作業が面白かった。
その頃私はまだどちらかと言うと「デザインとかDTPの人」だった。デザインというのは、非常に難しい仕事で、出口が見えない洞窟を行くような仕事だ。
エディトリアルデザインというのは、かなりの割合、インターフェースデザインであり、それが前提としてある上で写真の大きさや空間の使い方、文字の置き方で表現をつくっていく。雑誌広告やパッケージなどもやっていたが、エディトリアルはもうちょっと理屈っぽいところがある。

今思えば、本当に出口が見えない状態で仕事をしていた。なにより、自分が作っているものの良し悪しがわからないのだ。何を表現するのかが曖昧なまま手を動かすから、そのデザインが正しいのかどうかも曖昧だ。一定の技術はあったから、なんかそれっぽくは見える。締め切りまでにどうにか形にはするが、「できた!」なんて思ったことがほとんどなかったのだ。
ところが、flashの仕事(絵をプログラム通りに動かす仕事)をしてみると、「できた!」という感覚のオンパレードだったのだ。
それは、単純に命令通りに「動いた!」ということだけでしかないのかもしれないが、これが非常に楽しかった。人間、楽しいことは優先してやってしまうものなので、そのプロジェクト以降もUさんのデザインを動かす仕事をどんどん受注し、数ヶ月で、それなりのものをつくれるようになった。ActionScript2.0も覚えた。

確か、このあたりでバスキュールの馬場さんやクスールの松村さんが書かれていたピンクの帯がついたオブジェクト指向プログラミングの本を手にとって、さっぱりわからなくて諦めたりした。
この本の帯は確かピンクの帯だったのだが、これに、「中村勇吾氏絶賛!」みたいなことが書いてあって、それを見て初めて、Uさんが言っていた「ナカムラユウゴ」さんの漢字名を知ったのだ。それに伴い、yugop.com(私が最初に見たときから更新されていない笑)はもちろん、intentionalliesのサイトなどに出会い、ご多聞に漏れず、衝撃を受けた。
ただし、ここが私のダメなところで、そのくらいのレベルの衝撃だと、あまり向上心につながらないのである。「すっげーな」と思って、そっとブラウザを閉じたものだ。

そうこうしているうちに、事件が起こった。それは、本当は大したことではなかったのかもしれないし、先方にも悪気もなかったのかもしれない。ただ、私にとっては大きな事件だった。

ここで最初に触れたTIAA=東京インタラクティブアドアワード、が登場する。
私がUさんとともに、はじめてがっつり組み上げたflashサイト、例の「できます」って言って無理やり作ってしまった会社の採用ウェブサイトが、TIAAで入賞したのである。

それまでTIAAの存在など知らなかった。第3回東京インタラクティブアドアワード。いま一緒に会社を経営していて、隣の席で一緒に働いている、後に渋谷でうんこを漏らして有名になる当時電通の中村洋基さんや、とても仲良くさせて頂いているカイブツの木谷友亮さんは、このときに有名な「スラムダンク」のキャンペーンでグランプリを受賞している。
ともあれ、初めて組み上げたウェブサイトが、TIAAという広告賞で入賞したのである。何だか知らないが、これはとても嬉しいことだ。何しろ、賞なんて、子供の頃からほとんどもらったことがなかった。
小学生の頃、私は靴下が嫌いでずっと裸足で学校生活を送っていたのだが、それがたまたま校長先生の目に止まり、なぜか「健康優良児」として表彰された。それ以来である。これはとても嬉しいことだ。
私はとても嬉しかった。妻にも真っ先に電話で報告した記憶がある。
こういうのって、授賞式に呼ばれたりするものなのだろうか、スーツで行かなきゃいけないのだろうか。そんな期待もしたものだ。

しかし、発表された受賞結果のサイトを見て私は愕然とした。
件の採用サイトは確かに入賞している。私が組んだflashサイトへのリンクも貼られている。そのサイトは間違いなく私がプログラムで動かしたものだ。他の人のコードは一切入っていないはずだ。
それなのに、受賞作品のクレジットに私の名前が無いのだ。それどころか、お話をくれたUさんの名前すら無いのだ。どこにも無いのである。
知らない広告代理店(当時の私には、「広告代理店」の概念すらあやふやだった)の人や、知らないデザイナーさん、知らない人の名前が何人か並んでいる。
flashエンジニアのクレジットは、無い。
愕然とした。なんでだ? なんなんだこれは。これ、私が全部プログラム書いてるよね? 私いなかったらできてないよね? なんで??!!!

ちなみに、今になってみると、スタッフクレジットというものは繊細なもので、手違いでお名前が外れてしまうことなどが、稀にある(私自身、ご迷惑をおかけしたこともある)。大概の場合は悪気は全くないのだが、この場合はさすがにおかしかったんじゃないか、と今でも思う。

このとき、私は特にUさんにもクレームを入れていないし(「名前入れてくれないものなのですね」くらいのことは言った。けどUさんもこの場合おそらく被害者だ。)、普段通りに振舞った。
しかし、内心は非常に悔しかった。悔しくて眠れなくなってしまった。
その日を境に、本当に眠れなくなってしまった。

眠らずに何をしたかというと、まず、片っ端から同じ第3回TIAAの受賞作品を見まくった。受賞といっても入賞だ。金賞や銀賞を獲っているのはどういうものなんだ。どういうやつが獲っているのか? それは本当に面白いのか? すごいのか?
このとき、金賞を獲っていた「蹴メ」のクレジットで、今一緒に会社を経営していて、数年後に師として仰ぐことになる伊藤直樹さんや、いろいろなお仕事でお世話になることになる田中耕一郎さんの存在を初めて知った。
その8ヶ月後くらいに入社することになるイメージソースという会社の存在も初めて知った。ビジネス・アーキテクツもバスキュールも、初めて知ることになった。
中村勇吾さんがthaという会社をやっている人だということも知った。
第3回TIAAの受賞作品を見終わったら、第2回を見て、第1回を見て、そのうちに、CBC-NETの存在を知って(そのCBC-NETにいまこの記事を書いているのだから、当時の自分が知ったら驚くだろう)、9zakuの存在を知った。

当時のウェブコンテンツ紹介メディアと言えば、CBC-NET9zakuだ。そこには、見たことがないようなかっこいいウェブサイトが山のように紹介されていた。
当時、4scandalsさんというユニットがとても人気があって、つくっているもののクオリティの高さ、露出の仕方や見え方に感動した。4scandalsのメンバーのタロアウトさんは、私が最初にバイトしていたデザイン事務所に同時期に社員として入った方で、ウェブの業界ではとても有名になられていたのだ。とても驚いて、凄いジェラシーを感じた。彼に比べて、私は賞をもらっても名前すら載せてもらえないどうでもいい存在だ。

さらに、私のジェラシーは高まっていった。当時の私は29歳(1976年生まれ)である。ここまでのレベルで怨念を持ってしまうとスーパー粘着質になってしまう私は、賞をたくさん受賞されている人や、CBCや9zakuでよく名前が出る人の名前を片っ端からググって、片っ端からインタビュー等を読んでいった。
イメソの遠崎さんを始めとして、セミトラの田中さんや菅井さん、RAKU-GAKIの西田さん、wildcardの高木さん(いま、高木さんは2件くらい隣のマンションに住んでいて、よく公園で会う笑)、いまmountの梅津さん、バスキュールの馬場さん、クスールの松村さん、カイブツの木谷さん、artlessの川上さん、当時bAの森田さん・・・と、枚挙に暇がないほど、同年代の人間がウェブ業界では大活躍していたのだ。

前述の中村洋基さんに至っては、3歳も年下である。これには衝撃を受けた。悔しくって、毎日ひろきさんのブログを読んだ。記事についていた、電通小池さんのコメントに至るまで読み込んだ。彼がつくったバナーも全部見た。悔しいけど全部面白かった。天才だと思った。神様は彼にはとんでもない才能を授けたのに、私は受賞者のリストから漏れる程度の人間だ。
「インタラクティブ・サラリーマン」のサイトでひろきさんの実写アニメーションを見た。わりとイケメンである。
「ふざけんな!」と思った。私は23歳の段階で、隠しようがないほど薄毛が進行し、実家でテレビを見ていたら母親に後ろから育毛剤のスプレーをかけられるほどだった。その行動に怒って「何すんだよ!」と言ったら、「いや、あまりにも不憫で・・・」と言われる始末だ。私は当時29歳。26歳のひろきさんには才能も髪の毛もあるのだ。私には無い。
(7年後に、雲の上のさらに上の存在であるひろきさんと一緒に会社をつくることになるなんて聞いたら、当時の私は鼻血と耳血を出して出血多量で失神して入院するだろう。)

それが終わったら今度はmixiだ。ちょうどmixiが盛り上がり始めた時期、私も友人に誘われてmixiを始めた。mixiには、上記の「ウェブ業界の巨人たち」がみんないた。足あとを何度もつけてしまうと、足あとを辿られて、惨めで何もない私のプロフィールを見られてしまうから、一度だけ訪問して、いろんな人の日記を見まくった。
みんな生き生きと仕事をしている。日記の中から、様々な会社内での人間関係に至るまで理解するほどになった。

私が数カ月後に入社して、イメージソースと合併することになるNON-GRIDのことも9zakuあたりで存在を知っていたが、このあたりで、会社にどういう人がいるのかを大体把握していた。社長の小池さんのmixiを見て、足あと返しで訪問されてすごくどきどきしたのを覚えている。
それがゆえに、私は今に至るまで業界オタクだ。どのプロジェクトで誰が何を担当していたとか、かなり細かいところまで把握している。
初めてお会いした人に、「あー、◯年前に◯◯で◯◯を担当されていた◯◯さんですね。初めて本物見た!」なんて言うと、「何でそんなん知ってるんすか?!」と驚かれることが多い。

そんな私のジェラシーと怨念が最高潮に達したのは、下記の記事である。
赤球 / 金獅子
中村勇吾さんが書いていたカンヌ国際広告祭に関する受賞記事。
私はこの記事で、「カンヌ国際広告祭」なんていうものがあることを初めて知った。
そして名前からして凄そうなこの賞で、勇吾さんも、上記のひろきさんも、つくったものが高く評価されていることを知った。
この記事を見たときが、一番、自分のその時の状況と、ウェブ業界で活躍されている皆さんとのギャップを感じた瞬間だった。かたや、国際広告賞で金だの銀だのグランプリだのを毎年獲って、それでいて飄々としている。かたや、国内の賞で入賞したのに名前を載せてもらえない私。
あまりの差に、やっぱり愕然として、さらに眠れなくなった。

というわけで、私は狂った。狂ったように毎晩毎夜、仕事中も含め、ウェブサイトを見まくった。「ウェブ業界」について、調べまくった。ウェブデザイニングも、ウェブクリエイターズも購読し始めた。
当たり前だが、最終的に、妻が心配した。
この頃の私は、相当に苦しそうな顔をしていたらしい。
「そんなに苦しいなら、就職してみたら?」と言われた。

当時、私は30歳手前で、結婚1年目だった。所帯も持ったばかりで、安定した収入もあり、冒険をしていい状態ではない。しかし、30歳になったら、本当に冒険なんてできなくなってしまう(ような気がしていた)。
ウェブ業界での仕事がとても大変であることなんて、わかり切ったことだったのだ。

そして、私は夢遊病者のように就職活動を始めた。
私は「名前を入れてもらえなかったTIAA入賞」という小さい実績だけを引っさげて、まず、ビジネス・アーキテクツ(bA)に応募した。中村勇吾さんが在籍していた会社だし、所帯持ちなので、会社の規模が大きくて、福利厚生がきちんとしていそうで、もちろんかっこいいものを作り続けている会社に入りたかった。
当時、大規模な募集もしていた。
もともとデザイナーなので、デザイナーとして応募した。書類選考を通った。
妻が、面接のためにスーツを新調してくれた。就職したらとても迷惑をかけることになるのに、応援してくれる気持ちが、涙が出るほどありがたかった。
そのスーツを着て1次面接に行った。緊張しすぎて、うまくしゃべれなかった。実績が無いに等しい30近いハゲたスーツ姿のしどろもどろな人なんて、採用しないのが当たり前だ。面接官の皆さんがめちゃくちゃ怖かった(後日、お会いした際は気さくな方々でした笑)。
落ちた。

バスキュールに応募した。ちょうど、リアルタイムバナーや、flash8を初めてしっかり利用したSaabのウェブサイトなど、凄い勢いで出しまくっていて、とってもまぶしい存在だった。
今度は書類で落ちた。

これはもう駄目だと思った。やはり、実績が無いに等しい30歳近い、雑誌やってた奴なんて、採用するほうがおかしい。そんなことに気づいた。

イメージソースと、イメージソースを出て創業したてだった遠崎さんのストリッパーズを検討した。前者は、募集要項がやたらとハードル高めだった(Java必須とか書いてあった。これは、入社後にそのあたりに口を出せるようになってから「ハードル高すぎで応募こないから下げよう」と言って下げてもらった)ので、断念した。
ストリッパーズは、スタートしたての会社で、すごく働きたかったのだが、同い年の遠崎さんに面接で落とされることが嫌で仕方がなくて、辞めた。
thaは募集していなかった。

最終的に、NON-GRIDという会社に、面接に行った。小さい会社で、そんなに大きい実績はなかったが、急成長中で、勢いがある会社だった。
募集要項に「体力とやる気があればOK!」と書いてあった。そして、この会社のオフィスに間借りしている女性とつながる機会があったので、勇気を出して、面接をしてもらえるようにお願いしてみたのだ。

面接に行った。そこから長い付き合いになる、小池社長と、同時期に会社に入ったプロデューサーの足利さん(今は、AID-DCCさんで働かれている)の面接を受けた。
面接は、小さいオフィスの隅っこで行われたので、他の社員にも丸見えだった。
mixiで調べて知った人たちの本物が、そこで実際に働いていた。
とにかく食い下がって、とりあえず、試用で1つ、仕事を外注してもらうところまでこぎつけた。劇場的な物言いだけれども、そこから全てが始まった。

その仕事をどうにか仕上げる中途で、就職が決まった(その1か月後には、驚くべきことに会社がイメージソースと合併してしまった)。そんな無理矢理なプロセスでどうにか入れてもらうことができたので、小池さんに対する恩は、マリアナ海溝よりも深い。

就職が決まった夜、妻に手紙を書いた。これから死ぬ気で働こうと思っていること。だから、とても忙しくなること。一緒にいる時間が短くなること。それと、応援してくれたことへの感謝を書いて、伝えた。さすがに泣いたのを覚えている。

そのくらい、背水の陣もいいところだったので、「『カンヌ国際広告祭』で賞を受賞する」という大それた目標をつくった。そのくらいまで行かないと、妻に合わせる顔がない。
当時の私にとっては、「海賊王に俺はなる!」くらいの大それた目標だったのだ。

私は広告賞を獲りたくて、ウェブ業界に入ったのである。「良いものをつくりたい」とか「新しいコミュニケーションをつくりたい」なんて、抽象的なことはほとんど考えなかった。
今思えば気恥ずかしい目的で、さすがに今は広告賞について違う価値観を持っているけど(もらえるともちろん嬉しい)、私は間違いなく広告賞という目的に突き動かされてものを作っていた。

広告賞は、当然広告を評価する賞で、じゃあ「広告」ってなんなのよというとそのあたりもあやふやになってきている昨今ではある。
広告賞の価値は、つくり手にとってあやふやなものかもしれないし、賞狙いでものをつくるのは、誠実じゃないという考え方もある。

しかし、7年前の私のような気持ちで受賞作品を見つめている人はきっといるし、私自身のことを調べている人もいるのかもしれない。
そんなことを考えると、いい加減な審査はできないなあと、つくづく思う。意外と、人生かかってるはずなのだ。

と同時に、せっかく今の私はチャンスに恵まれた環境にいるのだから、もっともっと真面目に仕事をしないと、当時の自分にも妻にも失礼だなあと思ったりする。
そんなわけで、仕事してきます。

#ちなみにちなみに、一応オチをつけておくと、ありがたいことにこの7年間で、その「カンヌ国際広告祭」で(たぶん)15もの賞を頂いています。当時の自分に教えたら、やっぱり失神するだろうと思う。