Home > Dots & Lines > たにぐち・わたなべ

たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー 第 1 回「思い出横丁情報科学芸術アカデミーへようこそ!」

March 10, 2010
Taniguchi & Watanabe
場末のメディアアーティスト、谷口暁彦と渡邉朋也による連載第1回目。 第1回目の今回は、この連載の概要、意図と今後の展開について説明する

oamas_logo.jpg

あいさつ

読者のみなさまはじめまして、こんにちは。このたびCBCNET様で連載をさせていただくことになった、たにぐち・わたなべです。

taniguchi_watanabe01_01.jpg

写真1:たにぐち(左)とわたなべ(右から2人目) [撮影:澄毅]

我々は、日中、職場こそ異なるものの、ともに高周波を発しながら明滅するスクリーンを前にマウスをクリックする作業(※1)を生業としており、その傍ら、夜ごと思い出横丁(※2)に集まってはメディアアートについての思索と実践を行っているいわば場末のメディアアーティスト(※3)です。

先日、我々の活動で半ば恒例となっている"流しのメディアアート"(※4)を思い出横丁で行っていたところをCBCNET様に拾っていただき、ミルクと寝床と新しい名前を与えられ(※5)、このようなかたちで連載させていただけることとなりました。まずはこの場を借りてCBCNET様には感謝申し上げたいと思います。

さて、今回は記念すべき第1回ということで、この連載の概要や意図、そして今後の展望などを記していきたいと思います。

※1...高周波を発しながら明滅するスクリーンを前にマウスをクリックする作業

さすがにここまでではないが、いずれ到達したい境地ではある。

※2...思い出横丁

taniguchi_watanabe01_02.jpg 思い出横丁の入り口 (撮影:澄毅)
新宿駅西口から徒歩3分ほどの場所にある「新宿西口商店街」の一部のこと。小便横丁とも言う。夜ともなれば多くの人間がここに集い、美術やデザインに関する熱い議論が交わされている。そういう意味では新宿に出現したオフラインのCBCNETとも言えるだろう。メディアアート関係の話題だと、2009年の夏に、今となってはまぼろしの「国立メディア芸術総合センター(仮称)」についての議論が白熱したのは記憶に新しい。

※3...場末のメディアアーティスト

taniguchi_watanabe01_03.jpg 思い出横丁のひなどり1号店でメディアアートについて語るたにぐち・わたなべの様子
思い出横丁の店舗全般に言えることではあるが、店舗2階部は適度なパーソナルスペースを確保できるうえ、思い出横丁の喧騒がピンクノイズのように心地よく脳に染み渡り、思索と実践の場としてこれ以上ない。左の写真が撮影された、ひなどりに関して言うと、従業員のたどたどしい日本語が、絶妙な異国情緒を醸し出し、我々の生活に重くのしかかる日本社会の悪弊をつかの間ではあるが忘れさせてくれる。なお、あんなミュージアムやこんなフェスティバルからお声が掛からないから、こんなところで愚痴をこぼしているとか、そういった低次元の話では全く無いので注意していただきたい。

※4...流しのメディアアート

自分で書いておいてなんだが、流しのメディアアートとはいったい何だろうか?文章として可能なのだから、どんな形態にせよきっと可能なのだろう。おそらく、頭蓋骨の溝にレコード針を落として再生するとか、喉の骨をフィルターにして故人(例えばゲーテ)の声を取り出したりすればいいのではないか。

※5...ミルクと寝床と新しい名前

もしあなたも生き物をひろうことがあれば、このウェブサイトを参考に優しくケアしてあげてほしい。


思い出横丁情報科学芸術アカデミー

さまざまな店がひしめき合い、さまざまなバックグラウンドを持った人々がノマディックに出入りする思い出横丁(※6)

歓声と罵声が、ビールやおつまみとともに飛び交うこの思い出横丁(※7)の片隅で、いつものようにメディアアートについての議論を繰り広げていたある夜のこと、我々はふと何かの存在に気づきました。

しばらくは、この"何か"とは何なのか、うまく掴めないでいましたが、議論を重ねていくうちに、我々が感じていたものは一種の"場"のようなものらしいことが徐々にわかってきました。

それは、議論を行うたびに静かに立ち現われ、明け方にはその記憶もろとも儚く崩れ去ってしまう不安定な場。そこでの議論の対象とする領域が無限に発散していきながら、明確に先鋭化していくような不定形な場。そこに立ち会う誰しもが"生徒"であり、それと同時に"先生"であるようなフラットな場。(※8)

我々はいつしかこの場、あるいはこの場で起こるさまざまな現象のことを親しみと畏敬を込めて"アカデミー"――"思い出横丁情報科学芸術アカデミー"と呼ぶようになりました。
この連載では、そんな想念の学校である"思い出横丁情報科学芸術アカデミー"を誌面上に展開していきます。

※6......さまざまな店がひしめき合い、さまざまなバックグラウンドを持った人々がノマディックに出入りする思い出横丁

t_w01_06.jpg 思い出横丁の様子
よく考えてみると、この動画に映ってるのは、思い出横丁ではなくて歌舞伎町だし、厳密に言えば歌舞伎町をモチーフにした未来のロサンゼルスだし、さらに厳密にはそのようなロサンゼルスを再現したスタジオセットだし、そもそも映画「ブレードランナー」のワンシーンである。それはさておき、我々もえびの天ぷらは好物のひとつなのだが、それにしても4つは余りにも多すぎる。店主と同様、2つで十分なのではないか、というのが率直な思いだ。

※7......歓声と罵声が、ビールやおつまみとともに飛び交うこの思い出横丁の様子

t_w01_07.jpg 思い出横丁の様子(その2)
この動画で飛び交っているのはワインやウォッカであるが、このようにしてビールやおつまみが議論の輪に投入された結果、議論はいつしかノンバーバルな形態へと移行し、時としてそのコミュニケーション速度は音速を超える。

※8......それは、議論を行うたびに静かに立ち現われ、明け方にはその記憶もろとも儚く崩れ去ってしまう不安定な場。そこでの議論の対象とする領域が無限に発散していきながら、明確に先鋭化していくような不定形な場。そこに立ち会う誰しもが"生徒"であり、それと同時に"先生"であるようなフラットな場。

t_w01_08.jpg 思い出横丁から見える風景の一例
不安定で不定形なこの"場"においては、議論が活性化すると、風景もこのように見えることがある。ただ酔っぱらっているだけじゃないかという疑念もあるかと思うが、それはまったく気のせいである。


アカデミーの目的


メディアアートとは何か

これまで、再三に渡り「メディアアート」ということばを連呼し続けてきましたが、このアカデミーが目指すところ、およびアカデミーで行われる思索や実践の意図を説明するにあたって、シンプルに「メディアアート」を定義しておきます。

Q. メディアアートとは何ですか?
A.
t_w01_kiri.png




ニューメディアを用いた芸術表現です

基本的にあらゆる芸術表現は、作者の思考や、想像、在り様などと、鑑賞者を仲立ちするという純粋に「媒体」という意味でメディアを用いて成立しています。よく引き合いに出される例えではありますが、絵画におけるキャンバスといったものもメディアの一種であり、メディアを用いている成立しているという点ではメディアアートと言えなくもありません。

それでは、なぜいわゆるメディアアートだけが、「メディアアート」と称されているのでしょうか。

それは、メディアアートにおける「メディア」が、有史以来受け継がれてきた伝統的なメディアのことではなく、技術革新が起こるたびにもたらされる新しい技術の上に存立するメディア(=ニューメディア)のことを指しているためです。

ここで留意しておきたいのは、この「ニューメディア」ということばが指し示す対象は、時代とともに変遷や拡張を繰り返しているという点です。

例えば現在、ニューメディアの代表的な例として、コンピュータやインターネットなどを中心とするデジタルメディアが挙げられると思いますが、コンピュータやインターネットが人々の前に登場する以前には、映像メディアが主たるニューメディアとして扱われていましたし、おそらく10年後には生命科学技術の発展によって、生命そのものがニューメディアとしてメディアアートの中で頻繁に扱われていくことになるでしょう。

このような絶え間ない変遷や拡張によって、メディアアートはさまざまな形態をとるようになり、それと同時に、つくるための技術も多様なものとなってきました。そんなメディアアートの現状は、さまざまな店がひしめき合い、さまざまなバックグラウンドを持つ人々が出入りする、我々の第二の故郷・思い出横丁かと見まごうばかりです。

しかし、"場末のメディアアーティスト"の立場から冷静に考えてみると、メディアアートが持つこうした多様性や多態性というものは、その創作のプロセスにおいて、ある種の困難を生み出してしまっているように思えてなりません。というのも、実際にメディアアートの現状を見渡してみると、この困難に直面した結果として生まれたであろう、つまらない作品、美しくない作品をよく目にしてしまうからです。

では、どのようにすれば、メディアアートが潜在的に孕んでいる困難に直面せずに美しい、または面白いメディアアートをつくることができるのでしょうか。この問いに対する答えを見つけ出すことがこのアカデミーの大きな目的のひとつであり、そのための作業が連載のコンテンツとなります。
ひとまずここは、今日のデジタルメディアを例に、そもそもこの困難とは一体どのようなものなのか、ということも含めて、その答えがあるであろう方向を示してみることにします。


ニューメディア的身体/ニューメディア的精神

20世紀末から、高度情報化の波が猛烈な勢いで我々の生活に押し寄せてきました。その結果、今日ではインターネットやコンピュータといった情報コミュニケーション技術や、その産物が、生活と切り離せないレベルにまで浸透しました。それは、我々を取り巻く"環境"であり、個人レベルの意思や知性ではどうすることもできない、超越的なものとなっているという点ではもはや"自然"だと言っても過言ではないでしょう。

このような状況が我々の身体、知覚にもたらす影響について考えるために、ちょっとした例え話をしてみます。

実はつい今しがた、原稿執筆に疲れた指先(※9)を癒すために、平日の日中にも関わらず近所の商店街を歩いていました。どのようにこれから先の原稿を書いていけばいいのか、悶々としながらしばらく歩いていると、どこからともなく良い匂いがしてきたのです。クリーミーかつフルーティーなこの匂いはなんだろうと思い、タネ本のひとつとして書店で購入した「Beyond Interaction--メディアアートのためのopenFrameworksプログラミング入門」(※10)を片手に匂いの元を辿って歩いていくと、その先には一本の梅の木が咲き誇っていたのです。

商店街の外れに一本の梅が花を咲かせている。事実を客観的に記述してしまえば、大したことのない出来事ですが、こうしたことに「美しさ」や「面白さ」を感じてしまうのが人間です。さきほど我々の内部に芽生えたこの「美しい」、「面白い」といった感情、あるいは経験というものは、どこからやってきたのでしょうか。

それはまぎれもなく梅の木との出会いによってもたらされたものです。人間の感情や経験は決して自ら意図的に立ち上げられるものではありません。必ず自分の外部にあるものからその契機を与えられ、そこで初めて自身の中に感情や経験が立ち上がり、身体化するのです。

つまり、この場合の「私」の感情と経験は、梅の木との出会いとともに生起したのであり、その「美しさや面白さを感じた私」は梅の木へと拡張された「私」なのです(※11)

そして、自然環境の一部と化しつつある情報コミュニケーション技術や、その産物もまた同様です。それらもさきほどの一本の梅の木のように、契機としての出会いによって、私を、私の感情や経験とともに、それ自体へと拡張させる可能性があるのです。

ニコニコ動画で自我が溶け出すこと、ありませんか?Photoshopを使っているうちに、みるみる時空が歪むこと、ありませんか?Twitterのサーバーが落ちていると、なんだか体調が悪くなること、ありませんか?こうしたことはもしかすると、我々の身体や精神が、拡張していたことを示す証左なのかもしれません。

※9......原稿執筆に疲れた指先

t_w01_09.jpg 原稿執筆に疲れた指先の一例
読者のみなさんもタイプのし過ぎによる腱鞘炎にはくれぐれも注意していただきたい。適度な休憩が肝心である。

※10......Beyond Interaction--メディアアートのためのopenFrameworksプログラミング入門

t_w01_10.jpg Beyond Interaction--メディアアートのためのopenFrameworksプログラミング入門
定価:3570円
著者:田所淳、比嘉了、久保田晃弘
......とこのように、この連載では広告を掲載することも可能ですので、出版社様や、メーカー様などは広告の出稿をご検討いただけると幸いです。

※11......梅の木へと拡張された「私」

t_w01_11.jpg 拡張した「私」とそこから駆動した創作行為の一例
読者のみなさんにはわかりづらいのではないかと思い、参考として動画を用意した。この動画の例では、拡張の対象は樫の木であるが、梅の木でも基本は同じである。樫の木へと拡張したとしても、移動は不自由であるものの、適切にコミュニケーションをとることは可能なので、恐れることはない。


つくり始めることをつくり始める

しかし、美しいメディアアート、面白いメディアアートをつくるためには、日常生活の中であるとき突然訪れる情報コミュニケーション技術や、その産物との出会いを、単に身体や精神をニューメディアの側へと拡張するための契機として捉えるだけでは、まだ物足りません。

というのも、メディアアートの創作行為において、そのように身体や精神を拡張していくということは、言ってみれば、スポーツをするための基礎体力や反射神経を鍛えていくのと同じようなことだからです。基礎体力や反射神経だけで、野球において多くのホームランを打つことができないのは、長嶋一茂(※12)を見ても明らかです。

たとえば落合博満(※13)のように、右へ左へとホームランを積み重ねていくには、優れた基礎体力や、反射神経のうえに築き上げられた巧みなバットコントロールをもって、向かってくるボールをうまくすくい上げる必要があります。これと同様のことがメディアアートにも言えるのです。

つまり、 美しいメディアアート、面白いメディアアートをつくるためには、情報コミュニケーション技術や、その産物との邂逅の先、そこでもたらされる「美しい」とか「面白い」といった感情や経験にきちんと目を向け、それを作品へとすくい上げること、そのための技術がさらに重要なのです。

しかし、今日のメディアアートの世界には、自分の内部に芽生えた感情や経験を適切にすくい上げるための技術のことを「感性」や「センス」などと言うことばで抽象化し、ブラックボックスの中へと追いやってしまうような、心ない不感症の人たちが少なくありません。

そのような不感症の人たちはおおにして、自分の内部に芽生えていたであろう「美しい」とか「面白い」といった感情や経験に気づかないまま、ニューメディアをうまく、きれいに扱うための技術のみが先行していってしまうので、結局は美しさや面白さに乏しい「よくできた」ような作品をつくってしまいがちです。こうしたことが、我々の考える"困難"です。ニューメディアをうまく、きれいに扱うための技術などというものは、本来二の次、三の次で良いのです。

そして、そういう人たちに限って、さも適切であるかのような、論理的かつ道徳的な整合性を持ったコンセプトメイキングなどを重視するような有様です。確かに、そのようなコンセプトメイキングの結果として生まれる"コンセプト"と称されるものは、先ほどの「感性」や「センス」と比べると一見客観的で、誰もが容易に共有できる"コード"の上に展開できることばにはなるのかもしれません。

しかし、それは事後的に作品で生起している現象を読解したり、指し示すことばであって、作品内で起きる現象に対して、決して先行することはないのです。

もちろん、作家が他者と共有可能な客観的な視点を全く持たずに制作を行っているということではありません。むしろ、自らの制作行為に対して、常にそういった客観的な視点で確認しつづけています。ただ、作品をつくり始める際の決定的な最初の一撃、言い換えれば作品の核となる部分を最初に見いだす地点においては、客観性などよりも「面白い」かどうか、というような萌芽を見いだし、すくいあげる主観的な判断の技術が重要なのです。

※12......長嶋一茂

t_w01_12.jpg 長嶋一茂の様子
後述の落合博満の家に招かれた際、だされたメロンにブランデーをぶっかけて豪快に食した。

※13......落合博満

t_w01_13.jpg 落合博満の様子
先述の長嶋一茂のメロンの食べっぷりを見て、子どもは豪快に育てなければいけないと、夫人の信子氏ともども決意した。その子どもが現在の落合福嗣氏である。


連載の構成について

この連載では面白いメディアアート、美しいメディアアートをつくるための技術を獲得するにはどのようにすればいいのか、といったことを考察していきます。このことはさまざまな角度から考察可能だと思われるので、全6回を予定されている連載では、毎回、創作のプロセスで重要ななんらかのトピックを設定して、そこから切り込んでいきたいと思っています。

先ほども述べましたが、この連載における"技術"とは、Xcodeを使ってopenFrameworksでARのコードを書くとか、Arduinoを用いて加速度センサーの情報を取得し、Flashと連携させるといった類の技術のことではありません。副次的なレベルでは、そうしたことをやっていく可能性はあると思いますが、あくまで我々が言う"技術"とは、作品の萌芽となるものを見いだし、すくい上げるという審美的な技術のことです。

この技術は、技術であるがゆえに決してことばで記述できたり、論理的に読解できるものにはなりません。実践的な理解、言うなれば「会得」をする必要があります。そのため、連載ではリサーチと、それに基づく実制作、その両面から考察を重ねていく予定です。

まず、リサーチでは、創作のプロセスでそのトピックがどのように扱われているか、などのようにトピックを取り巻く状況を整理し、客観的に把握するために、いわゆる「フィールドワーク」を中心に行っていきます。トピックに関連する人物に対してインタビューを行うほか、関連する書籍やAV資料(※14)などを調査し、紹介していくことになるでしょう。

次に、実制作では、リサーチを通じて得られた知見をより実践的な理解へと高めるために、トピックに応じた作品を実際に我々が自ら制作します。ここでは、制作の背景にある思考プロセスを読者のみなさんと共有しやすくするために、我々自身がトピックに応じた演習課題を設計し、それに対して自ら制作をもって応答していくという構成を取ることにしました。ここでは、あくまで、トピックに関する実践的な理解と、表現としての審美的な判断とのバランスの取りやすさを重視していきたいと考えているので、シンプルな演習と即興的な作品群という組み合わせで提示されることになるでしょう。

今後の連載の中では、上記に挙げたアプローチから逸脱する場面もあるかもしれませんが、基本的にはこのような方向性で進めていきたいと思います。

※14......AV資料

t_w01_14.jpg AV資料の一例
「AV資料」と書かれて動画へのリンクが貼ってあると、少し緊張してしまうのはなぜだろうか。ここでのAV資料とは、映像音響資料のことであり、DVDやCD、オンライン上の動画共有サービスにアップロードされた動画などのことを指すので、ひとまずは安心して欲しい。


次回予告

と、ここまで大いにビジョンを語った「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」ですが、次回の内容はまったくの未定です。ですので、連載第2回の内容を検討しつつ、第1回の内容を反省する会合をUstream.tvを用いて公開します。読者のみなさんからのリクエストや、はげましのお便りをお待ちしておりますので、みなさん奮ってご参加&ご視聴ください。


ストリーミング放送「たにぐち・わたなべの思い出横丁放送大学」

日時:3月21日(日)21時~23時

放送URL:http://www.ustream.tv/channel/cbcnet-tv

プログラム(予定):

ロゴをつくろう
思い出横丁情報科学芸術アカデミーのロゴを、
毎回気鋭のデザイナーに思い出横丁でつくってもらうこのコーナー。
第 1回の今回はデザイナーの林洋介さんの登場です。
番組内でつくられていく過程を、ドキュメントしていきます

公開反省会
「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」の第1回を振り返り、
執筆者のたにぐちとわたなべが反省します。
みなさまからの感想をお待ちしております。

こんなメディアアートはいやだ
みなさんがいやだと思うメディアアートをお便りにて教えてください。

飲み会メディアアートをつくろう
メディアアートをつくりはじめるための契機はそこかしこに遍在しています。
思い出横丁といえど例外ではありません。
ここでは場末のメディアアーティストであるたにぐちとわたなべが放送時間中に、
お店の中にある要素をもちいてメディアアート作品(「飲み会メディアアート」)を制作します。

公開編集会議
「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」の第1回の反省を踏まえて、
第2回の内容をどのようなものにしていくか、執筆者のたにぐちとわたなべが検討します。

メディアアート多事争論
最近あったメディアアート的な出来事に対して、
独自の観点から斬り込みます。
こんなことに斬り込んでほしいということがあれば、お便りにて教えてください。

お便りの宛先:
思い出横丁放送大学へのお便りの宛先は以下のとおりです。
omoide.mediaart@gmail.com
上記のプログラムに関係するもの以外でも
曲のリクエストなどもお待ちしております。
深夜ですのでくれぐれも送り間違いにはご注意ください。


Information

そろそろ押し入れから春物の服を出します。(たにぐち)

昨年大学に入学した妹が、見事に大学デビューし、実家に帰らなくなってしまったようです。私が中学、高校、大学と私立学校に通ったために、知らず知らずのうちに経済的な不自由を妹に強いてしまっていたのかもしれません。(わたなべ)

Links




PAGETOP