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たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー 第2回「たにぐち・わたなべのスーパーマイルドセブン」

June 4, 2010
Taniguchi & Watanabe
場末のメディアアーティスト、谷口暁彦と渡邉朋也による連載第2回目。今回からはいよいよ思索と実践に突入していく。

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※3月21日に放送された「たにぐち・わたなべの思い出横丁放送大学」の中で、不適切な発言 がありました。関係者のみなさまにはお詫び申し上げます。


はじめに

あいさつ

読者のみなさんこんにちは。メディアアート界のビューティペア(※1)ことたにぐち・わたなべです。

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たにぐち(右から2人目)とわたなべ(左) 撮影:高尾俊介

ふたりが着こなしているTシャツは、思い出横丁情報科学芸術アカデミーのファッション部門が展開するプレタポルテラインからの一品。現在はTシャツ通販サイトtee party から購入することができる。価格は3,500円(税抜き)

早いもので前回から3ヶ月近くの月日が経ってしまいましたが、みなさんお変わりなくお過ごしでしょうか。

ありがたいことに前回を公開した後、各方面からさまざまなお便りをいただきました。「指先の疲れが取れた(※2)」、「倒れた銀杏から若芽がでてきた(※3)」、「EDが治った(※4)」といったご報告や、「アカデミーの廃止は間違っている(※5)」といった激励など、これら読者のみなさんの声なき声(※6)が、シャバからは完全に隔絶され、場末を流離う我々にとって、大きな心の支えになったことは間違いありません。どうもありがとうございました。

さて、今回からはいよいよメディアアートについての思索と実践に突入していきます。前回の内容から引き継ぐかたちで話を進めていきますので、まずは前回のおさらいです(※7)


※1...ビューティペア

ビューティペア ビューティペアの様子
1970年代後半に存在した女子プロレスラーのタッグチーム。当時、全日本女子プロレス(全女)に所属していたジャッキー佐藤とマキ上田によって結成。必殺技は「ビューティスペシャル」。女子プロレスラーでありながら、レコードデビューを果たし、デビュー曲「かけめぐる青春」が大ヒットした。その後、「敗者は引退」というルールのもと、ビューティペア同士による対決が行われ、上田が敗北し、引退。ビューティペアは解散した。

※2...指先の疲れが取れた

指先の疲れが取れてキータイプも滑らかになり、さぞ仕事がはかどっていることだろうと思われるが、ちょっと待って欲しい。疲れ以外の他の感覚も取れてはいないだろうか。

※3...倒れた銀杏から若芽がでてきた

これは代わりにひとりの人間が、人間としての姿を捨て、銀杏へと拡張された新しい人間として生きることになったということだろうか。ここまで到達するにはなかなか苦労があったと思われるが、キノコへと拡張する場合は、黒いスーツを着たセールスマンから、「スタミナ茸」というキノコのエキスが入ったドリンク剤を貰い、それを飲めば比較的容易に可能だという話は聞いたことがあるので、ご興味ある方は試してみて欲しい。

※4...EDが治った

恐らく、我々が紹介したAV資料が功を奏したのだと思われるが、EDが治ったことと引き換えに、特殊な性癖を身につけてしまったのではないか、という点でいささかの不安もないではない。

※5...アカデミーの廃止は間違っている

まだ始まったばかりだというのに、もう我々は廃止されたり、何かへと統合されてしまう兆候がでていたのだろうか。全くもって自覚は無かったが、この激動の時代にその可能性がないとは言えないのも事実である。そうした憂き目に遭わないように、これからも地道に思索と実践を重ねて行く次第である。

※6...読者のみなさんの声なき声

読者のみなさんの声なき声 読者からのお便りが届けられる様子
ありもしない読者の声をでっちあげている、というようなことでは断じてない。迫害と闘いながら、闇に隠れて生きるマイノリティのみなさんが決死の想いで届けてくれた密書をご紹介しているに過ぎない。

※7...まずは前回のおさらいです

人間の細胞は毎日2000億~3000億個程度入れ替わっているので、3ヶ月が経つと、人間の全細胞数の3~4割超に相当する18兆~27兆個もの細胞が入れ替わったことになる。そう考えると、3ヶ月前に我々が書いた原稿などというものは、当事者の我々からしてみても、もはや他人の原稿であると言ってしまってよい。そういう観点からもおさらいは重要である。

前回のおさらい
前回は主にこの連載では今後どのようなことを行っていくか、といったことを中心にプレゼンテーションしましたが、その中でメディアアートの創作に関し、断片的ながらもいくつかの主張を行いました。おさらいを兼ねてその主張を以下に要約します。

  • 梅の木に出会って美しい/面白いと感じたこの感覚は「感情」である。これは何もないところから自発的によって立ち上がったものではないから、環境から与えられたものだと考える方が自然である。
  • つまり、「私の感情」といったものは、私の周囲の環境に外在化しており、この場合、"契機"としての梅の木に出会いによって、美しい/面白いという感情が発生したとき、梅の木へと拡張した「私」が発見された、と言える。
  • 美しい/面白いメディアアートをつくるためには、そのような拡張していた「私」へまなざしを向け、発見していくことが重要であるが、それは前提のようなものであって、それが全てではない。
    • 美しい/面白いメディアアートをつくるうえで、周囲の環境へと身体/精神を拡張させることは、バッティングにおいては基礎体力、反射神経を鍛えることに近い。
    • たとえば、落合博満がスタンドの右へ左へと多くの華麗なアーチをかけ、三冠王を3度も獲得し、45歳まで現役を続けることができたのは、落合自身が類まれな基礎体力、反射神経の持ち主であるということ以外にもさまざまな理由がある。
    • 落合は基礎体力、反射神経以外にもバットコントロールや相手バッテリーの配球を分析する技術なども卓越しており、こうした技術が彼の長きに渡る活躍を支えてきた。
    • 美しい/面白いメディアアートをつくるために本当に重要な技術は、バッティングにおけるバットコントロールや相手バッテリーの配球を分析する技術のようなものではないのか。
  • 美しい/面白いメディアアートをつくるためには、「"契機"を"作品"へと適切にすくい上げる技術」が必要である。これは主観的な判断の技術のことであり、一般的には「美学」とか「審美」などと言われているものである。

この連載では、上記の要約の最後に出てきた「すくい上げる技術」についてさまざまな観点から思索し、それに基づいた実践を行うことで、最終的にはその技術を体得することを目標にしています。今回は最初の思索と実践となりますから、根源的な部分から始めていきたいと思います。

今回の思索と実践のテーマは「どのようにすれば、(美術)作品は立ち上がるか」あるいは「どのような作用をもった存在が(美術)作品と言えるのか」です。もしかしたらこの連載で扱うにはいささか壮大すぎるテーマなのかもしれませんが、いま、このテーマについて思索と実践を行っておくことで、今後の連載の方向性がある程度絞られるのではないかと考え、このようなテーマを設定しました。

はじめに美術作品がつくられるプロセスを振り返るところから、考えていきましょう。


美術作品てどんなもの?

つくるプロセス
いわゆる「作品」と呼ばれるものは全て、文字通りつくるプロセスを経て、生み出されます。しかし、つくるプロセスを経たもの全てが「作品」になるわけではありません。

たとえば、ここ思い出横丁の焼き鳥屋の2階で、となりの席に座っているおじさんたちが吸っているあのマイルドセブン。

マイルドセブン(撮影:高尾俊介)

マイルドセブン(撮影:高尾俊介)

日本たばこ産業(JT)が製造・販売するタバコの銘柄の一つで、JTの最主力銘柄。1977年の発売と同時に、爆発的な大ヒットを果たし、以降ブランド拡大を行うことで、ファミリーシェアNo.1を保持している。通称は「マイセン」など。


たばこ事業法に基づいてJTと契約した農家で栽培、収穫、そして乾燥させたたばこの葉をJTの工場で香り付けをし、刻み、紙で巻き、フィルターを付け、20本で1箱にまとめられ、その後自民党の族議員とゼネコンたちが日本国内に張り巡らせた交通網を経由して、首都圏の自販機に届けられ、そしてICチップが埋め込まれたカードを用いて、確認する必要のない年齢を確認し、時節柄そう多くはないであろう給与の一部でそれを購入し、1本取り出してフィルターを装着し、ライターで火をつけて、終りなき日常から逃れるかのように目を細めながら煙を吸い込み、溜息とともに吐き出す......という極めて壮大かつ繊細なつくるプロセスを経ているにも関わらず、みなさんはあのマイルドセブンを"作品"とは認識しないはずです(※8)

やはり単につくるプロセスを経るだけでは"作品"は発生しないのです。ある創作物を作品とするためには、つくるという作業以外にも、何らかの操作が必要のようです(※9)。その操作とはどのようなものなのか、ここでは絵画を例に考えを進めていきます。


※8..."作品"とは認識しないはずです

しかし、箱に大きく書かれた「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります。」などという禍々しい警告は認識してもらえただろう。

※9...ある創作物を作品と するためには、つくるという作業以外にも、何らかの操作が必要のようです

ある創作物を作品と するためには、つくるという作業以外にも、何らかの操作が必要のようです 自称・つくってる人(ジョン・バルデッサリ『I Am Making Art』1971年)
このおじさんの言っていることが正しいのだとすると、彼の身体のムーブメントに、我々が探し求める"何らかの操作"のヒントが隠されているのではないか。


絵画の中のマイルドセブン
友だちに頼んで、おじさんが持っていたマイルドセブンをありのままに描いてもらいました。


松尾暢也『これはマイルドセブン』2010年

松尾暢也『これはマイルドセブン』2010年

この絵画を見ていると、何かがおかしいような気がしてなりません。というのも、これがつくられたプロセスを振り返ってみると、基本的にはキャンバスに絵具を塗っていっただけですから、どう考えてもここにはキャンバスとそこに塗られた絵具しか存在していないはずです。それなのに、ありもしないはずのマイルドセブンがここにあります。これは一体なぜなのでしょうか(※10)

それは、この絵画を見て「マイルドセブンが見えた」という鑑賞者に、マイルドセブンにはなりえないはずのキャンバスと絵具を通じて、"マイルドセブンを見る能力"が備わっていたからです。この能力とは、鑑賞者が"マイルドセブン"の箱の色や形といった物体としての特徴を見たり、触れたり、あるいはなんらかの手段で知識として得ていた、という経験のことです。

こうした能力によって、キャンバスとそこに塗られた絵具でしかなかったはずの"絵画"と呼ばれるこの存在を、"マイルドセブン"として見ることができるのです。

このようにいくら言葉を尽くして分析し、納得してみたところで、そもそも我々は喫煙者ではないですから、この絵はおじさんたちにあげた方が良いだろう。そう思った我々はこの絵画をおじさんに渡そうとしました。するとおじさんは絵画の中のマイルドセブンを取り出そうとしたのか、頭から勢い良くキャンバスに突っ込みました(※11)。その結果、当然キャンバスは突き破られ、おじさんはその拍子で窓から通りへと転落してしまいました。やがて動かなくなり、徐々に冷たくなっていくおじさん。その手のひらには、マイルドセブンはおろか、何も握られてはいませんでした。我々はこの過ちを二度と繰り返すまいと、1点のペン画を制作しました。


思い出横丁情報科学芸術アカデミー『これはマイルドセブンではない』2010年

思い出横丁情報科学芸術アカデミー『これはマイルドセブンではない』2010年

それにしても、何かがおかしいような気がしてなりません。というのも、先ほどの『これはマイルドセブン』を見たときの体験を振り返ってみると、この絵画は鑑賞者自身の能力によって、"マイルドセブン"として見えるようになったわけですから、当然それを掴み、1本取り出して、火を付け、吸うことができてもおかしくないはずです。それなのに、おじさんはマイルドセブンを吸うことはおろか箱を掴むことすらままならず、帰らぬ人になってしまいました(※12)。これは一体なぜなのでしょうか。

それは、この絵画が獲得したものが、"確かなマイルドセブンそのもの"ではなく、"鑑賞者の内部に立ち上がる、マイルドセブンとしての確からしさ(リアリティ)を持ったイメージ"だからです。


※10...これは一体なぜなのでしょうか

マイルドセブンの外箱の表示を見れば分かることだが、マイルドセブンの原材料はキャンバスと絵具だったという話ではない。ましてや「たばこは苦手なので、大麻を吸ったよ」といった話でもない。もし読者のみなさんの中で、何も絵具が塗られていないキャンバスにマイルドセブンが見えたという人がいれば眼科を、そもそもキャンバスも何も無いにも関わらずマイルドセブンが見えたという人がいれば精神科を受診してみることをお勧めする。

※11...頭から勢い良くキャンバスに突っ込みました

キャンバスに突っ込むおじさんの例(村上三郎『通過』1956年)
たばこを吸うという行為が作品にならなかったおじさんが、自分なりに考えた末に決行した創作行為だったのかもしれない。

※12...帰らぬ人になってしまいました

復活したおじさんの様子(中央)。おじさんの左がたにぐち、右がわたなべ。周りは他の客
どういうわけか3日後に復活したので安心して欲しい。このことについては、宗教などといったテーマで話す機会があれば触れたいと考えている。

マイルドセブンの確からしさ
キャンバスの表面に展開される絵画と、我々が生きるこの現実は、ともになにか現象が発生しうる場であるという点においてある種の"世界"だと言えます。しかし、その世界を規定する原理原則は大きく異なっています。

たとえば、我々が生きるこの世界は三次元であるのに対して、絵画は二次元ですし、我々が普段「匂い」や「重さ」と呼んでいる概念は、絵画においては存在していないか、仮に存在していたとしても、独自の原理原則に則っているため我々がそれと感じられる形態では存在していないはずです。

それぞれの世界にはこうした固有の原理原則が厳然と存在しており、これに従うことで初めてその世界で現象が構築されるのです。我々が生きるこの世界の原理原則は"物理"などと呼ばれ、学問になっていますから、みなさんもそれがこの世界にどのように影響を及ぼすかはよくご存知でしょう。

ですから、我々がキャンバスに絵具を塗って、"絵画"をつくりだすためには、絵画を規定する原理原則に則って、なんらかの現象を構築する必要があるのです。こうしたことは絵画に限らず、他のメディアにおいても同様です。この原理原則が一体何なのかというと、そのメディアを支えるテクノロジーの特性や制約そのものです。絵画が二次元なのは、キャンバスがそうであるからですし、匂いが無いのは絵具がそうだからです。

先ほどおじさんに渡そうとしたマイルドセブンの絵画も、そうした原理原則に則っています。我々の生きるこの現実に存在する(=実在の)マイルドセブンの中から、キャンバスという平面に落としこむことが可能な視覚的な要素のみを取り出し、描き写す(変換、翻訳する)ことで、絵画の中に現象が構築され、"絵画"として成立しています。

その一方で、この絵画に描かれたマイルドセブンからは"実在のマイルドセブン"を構成する視覚的な要素以外の要素、たとえば匂いや重さなどの要素は抜け落ちてしまっていますから、我々の生きる現実の原理原則に従って考えれば、絵画の中のマイルドセブンはやはり"確かなマイルドセブンそのもの"ではなく、"不完全なマイルドセブン"ということになります。

しかし、鑑賞者がこの"不完全なマイルドセブン"を見ると、先ほど説明した通り、鑑賞者のマイルドセブンにまつわる知識や経験と結びついて、"完全なマイルドセブン"が見えてくるわけです。ここで言う「見えてくる」ということが、鑑賞者の内部にいわゆる"イメージ"が立ち上がったという状態を指しています。

これは視覚的な要素がありのままに描き写されているから、そうなったわけではありません。鑑賞者の中には、「匂い」や「重さ」などの要素が抜け落ちてしまったこの"不完全なマイルドセブン"を目の当たりにして、たとえばマイルドセブンの「匂い」を感じたという人もいるのではないでしょうか。これは恐らく、マイルドセブンの絵を鑑賞したときに結びつく知識や経験が、単に視覚的要素に関わる部分だけではなく、その全体が参照されているために、あるはずのない「匂い」までも感じたのだろうと考えられます。こうして、鑑賞者の内部に立ち上がったイメージには、さまざまな側面からマイルドセブンとしての確からしさが補完されていくのです。


差異のかたち
ここまで、以下の3種類のマイルドセブンが登場してきました(※13)

  • 完全なマイルドセブン(実在のマイルドセブン)
  • 不完全なマイルドセブン(絵画の中のマイルドセブン)
  • 想像の中のマイルドセブン(絵を見たことで立ち上がったイメージ)

これらは相互に関係性を持っていると同時に、互いの間には断絶に近いほど大きな差異もあります。こうした差異にこそ、作品を成立させるための重大なヒントが隠されているのではないかというのが我々の考えです。

今朝、新宿西口の京王モールのトイレの個室で目を覚ますと、ポケットの中に、先日の思い出横丁での打ち合わせの際に書いたと思われる概念モデルの残骸が入っていたので、このモデルを参照しながら、相互の間に横たわる差異について説明していきましょう。


発見された概念モデル

発見された概念モデル

まず差異A――これは"完全なマイルドセブン(実在のマイルドセブン)"と"不完全なマイルドセブン(絵画の中のマイルドセブン)"との間にある差異です。これは、客観的に匂いを数値化するセンサーを用いても、絵画からは"実在のマイルドセブン"と同じ匂いを検出できないとか、絵画の表面をよく見ると、"実在のマイルドセブン"の表面とは質感が微妙に異なっているとか、そもそもマイルドセブンを絵画から取り出すことができない、などといったふたつの世界に横たわる原理原則の違いによってもたらされる差異です。あのおじさんはお酒を飲みすぎたせいか、こうした差異をきちんと認識できず、結果として命を落としましたが、多くの方にとってこれらは自明のことだと思います。

つぎに差異B――これは"不完全なマイルドセブン(絵画の中のマイルドセブン)"と、"想像の中のマイルドセブン(絵画を見たことで立ち上がったイメージ)"との間にある差異です。これは前章の最後で説明しましたが、"不完全なマイルドセブン"を鑑賞したことによって立ち上がったイメージに、あるはずのない匂いが付与されるようになるなど、マイルドセブンとしての確からしさが補完されていくことで生み出される差異です。

ここまでいわゆる「具象絵画」を例に話を進めているので、この差異Bについてあまり実感が湧かないかもしれません。これが仮に、対象をありのままに描かない技法で描かれた絵画であれば、わかりやすいのではないかと思います。ここに、墨汁と毛筆でマイルドセブンを描いた水墨画のような絵を描いたとしましょう。


思い出横丁情報科学芸術アカデミー『麻衣泉図(まいせんず)』2010年

思い出横丁情報科学芸術アカデミー『麻衣泉図(まいせんず)』2010年

この『麻衣泉図』のマイルドセブンは、実在のマイルドセブンが持つ視覚的な要素を描ききってはいませんが、おそらく鑑賞者にはマイルドセブンとしてきちんと見えたのではないでしょうか。それは、『麻衣泉図』ではマイルドセブンの視覚的な要素がある程度切り捨てられている代わりに、マイルドセブンが放つ煙の流れなどが絵画の原理原則に沿うように描かれている(変換、翻訳されている)ので、鑑賞者の内部に、マイルドセブンとしての確からしさをある程度備えたイメージが立ち上がったのだろうと思われます。このような絵画の表面に描かれたものと鑑賞者の内部に立ち上がったイメージとの間に発生した飛躍が、差異Bに相当します。

そして差異C――これは"完全なマイルドセブン(実在のマイルドセブン)"と"想像の中のマイルドセブン(絵画を見たことで立ち上がったイメージ)"との間にある差異です。この絵画を鑑賞したときに立ち上がるイメージにマイルドセブンとしての確からしさが付与されていく、つまり前述の差異Bが発生して行く過程で、場合によってはこのイメージの方が、実在のマイルドセブンよりもマイルドセブンらしくなってしまう瞬間があります。こうした瞬間に発生する超越が、差異Cに相当します。

たとえばこの絵画には、圧倒的な緻密さでもってマイルドセブンのディテールが描かれていますが、ここに描かれているのは我々の日常生活で目にするマイルドセブンには無い――より厳密に言えば"見落としてしまっていた"視覚的要素です。そういう意味では、ここで"想像の中のマイルドセブン(絵画を見たことで立ち上がったイメージ)"が比較対象としているのは、"実在のマイルドセブン"というよりも、むしろ鑑賞者の内部にあるマイルドセブンにまつわる知識や経験というのが正しいかもしれません。

いま挙げた3種類の差異はいずれも重要ですが、最後に紹介した差異Cをどのように設計するかが、作品を成立させる上でとりわけ重要な操作だと考えています。ですから我々の考えでは、思い出横丁のトイレに記されたピクトグラムは、女性や男性の外見的特徴を簡素な図形をもって平面に落し込み(=差異A)、そこから女性や男性を想起させている(=差異B)にも関わらず、そこに差異Cが存在しないために、それを作品とみなすことができないのです(※14)


※13...3種類のマイルドセブンが登場してきました

なお、実在のマイルドセブンのファミリー製品は28種類ある。

※14...それを作品とみなすことができないのです

アメリカ合衆国ボストンにあるWGBHという放送局のトイレのピクトグラム
こういった境地にまで達すれば、差異Cが発生するかもしれない。

メディアアートを例に
メディアアートも美術である以上、それに属する作品においても前述のような差異の枠組みは維持されます。ここではこれまでのおさらいと応用も兼ねて、ドイツを代表する美術家ヨーゼフ・ボイス(※15)によって制作された『カプリ・バッテリー』という作品を例に、メディアアートの場合について考えてみたいと思います。


ヨーゼフ・ボイス『カプリ・バッテリー』1985年

ヨーゼフ・ボイス『カプリ・バッテリー』1985年

ボイスの晩年にあたる1985年の作品。イタリアのカプリで採れたもぎたてレモンと、黄色に塗られた電球がソケットを介して直接接続されている。一見、接続されただけで、何も起きていないように見えるが......。


この作品を見る鑑賞者の多くは、レモンにまつわる知識として、レモン果汁は電解質を含んでいること、また、電気にまつわる知識として、レモンの果汁のような電解質を含む液体に、電極を差し込むことにより、電流が発生することを知っていると思います。そして、電球に電流を流すことによって明かりがつくことも、至極当たり前な日常の経験として理解しているでしょう。

ですから、鑑賞者がこの作品を見たとき、この作品で発生しているそれぞれの現象について理解することは容易のはずです。しかし、容易に理解できるからこそ、この作品の電球は決して点灯しないということも理解します。

しかし、鑑賞者には何か光を感じたという人もいるのではないでしょうか。

それは、鑑賞者がこの作品を鑑賞したときに、鑑賞者の内部に「レモンによって微弱ながらも電球に電流が流れているはず」という推定と、「電流が流れている以上、電球には光が灯されているのではないか」という推量が発生し、これらが脱臼した歯車のように組み合わされることによって、ありもしない光が発生しているように感じるのです。さらに、電球がレモンと同等の大きさであることや、レモンと同じ黄色で塗られていることによって、この実在しない"想像上の光"はより確かなものとして鑑賞者の内に立ち上がります。

先ほどの絵画の例を踏まえて言えば、この作品を通じて、鑑賞者の内部に立ち上がったイメージに、光としての確からしさが与えられた、ということです。そして、この実在しない"想像上の光"は、実在の光よりも脆く、儚いせいもあってか、実在の光よりも美しく輝いているように感じます。ここに我々が重視する差異Cが発生しました。

メディアアート界隈に巣くう心ない不感症の人たちは、光が客観的に観測できないことを過度に不安に思い、結果として高度な技術を駆使して実在の光を発生させようとするでしょう。しかし、我々は鑑賞者の内部にある知識や経験を介して想像力に訴えることで、実在の光よりも美しい/面白い光を点灯させることを選びます。我々が考える美しい/面白いメディアアートとは、こうしたものなのです。


※15...ヨーゼフ・ボイス

ヨーゼフ・ボイスの様子
美術家の傍ら歌手としても活動していたことでも知られている。ここで紹介した『レーガンでなく太陽を』(1982年)は70年代的グループサウンズと、80年代的テクノポップが融合した歌謡曲の名盤として評価が高い。

経験と知識
これまで我々は、作品をつくる上では差異――特に「さまざまな差異」の項で説明した差異C――を設計することが重要だと説いてきました。これを設計するためにはなにが必要なのでしょうか。

『これはマイルドセブン』にせよ『カプリ・バッテリー』にせよ、それを鑑賞する過程で差異Cが発生しているわけですが、その背景を注視してみると、あるふたつのものごとについての知識や経験をうまく活かしていることがわかります。それは、ひとつはモチーフ、もうひとつは作品が採用したメディアです。

『これはマイルドセブン』の例では、モチーフであるマイルドセブンに関しての知識や経験のみに言及しましたが、差異Cを生み出すためには、自明だと言って片付けたキャンバスや絵具のといったメディアを支えるテクノロジーについての知識や経験を侮ってはいけません。この場合、緻密に描くために欠かせない凹凸のないキャンバス面をいかにつくるのか、そして緻密に描くために適切な絵具の粘度、その乾燥時間の調整などといったさまざまな技術的制約を乗り越えることで差異Cは発生しています。この絵画を描いてくれた松尾氏は予備校、大学、そして卒業後の現在まで計10年近くに渡って絵を描いてきました。その長いキャリアの中で、キャンバスや絵具といったテクノロジーの特性や制約についての知識や経験を積み重ねることで、こうしたことが可能になっているのです。

前回からご覧になっている読者の方々は既にお気づきかと思いますが、我々が今回「知識や経験」と呼んでいるものは、第1回で「拡張された精神や身体」と呼んだそのものです。言うまでもなく、我々はテクノロジーと出会うたびにそれについての知識や経験が内部に蓄積されていきます。そうして蓄積された知識や経験が日常生活の中に溶け込み、そのかたちを失ったとき、テクノロジーへと拡張された精神や身体が立ち上がります。

まずは、このようにしてモチーフ、そしてメディアを支えるテクノロジーへと精神や身体を拡張すること。そして、そのような精神や身体を基盤に据えた上でメディアを規定する原理原則を理解し、それを活かして差異をつくりだすこと。これらを踏まえて美しい/面白いメディアアートをつくりだしていきましょう。



今回の課題

突然ですが、ここでみなさんに質問です。みなさんはこれまでに幽霊やそれに類するものを見たことはありますか?

残念ながら、我々はまだお目にかかったことはありません。ただ、幽霊というのは"霊感"と呼ばれる能力がある人̶̶いわゆる霊能力者のみに見えるものらしいということは、テレビや雑誌、インターネットなど各種メディアを通じて聞いたことがあります。なんでも霊能力者というのは、街や自然の中で霊を見つけてしまうだけにとどまらず、この能力を介して、行ったことのないはず家の外観の特徴や、家具の配置を言い当てたり、はたまた見ず知らずの人の家族構成や先祖のことなども言い当てたりすることもできるそうです。

各種メディアを見る限り、霊能力者が持つ"霊感"は、生まれ持った"才能"とか"センス"に近いものとして、幼少期からの心霊体験などと絡めて説明されることが多いようですが、一部にはこの能力を鍛えるためのトレーニング方法なども開発されているそうです。

これって、なにやら今回の論考に似ているような気がしませんか?というわけで、今回の課題は以下のように設定しました。


問題文
人は霊感が上がると幽霊が見えるようになると言われている。下記の条件を踏まえて、"幽霊"をつくりなさい。


条件
  • コンピュータとネットワーク、それぞれに関連する技術を用いること
  • 記号としての"幽霊"を描くのではなく、その存在を表現すること
  • あらゆる人間の生命活動を脅かさないこと
  • 神"と"ゾンビ"はつくらないこと



『思い出横丁情報科学芸術アカデミー放送部』次回放送のお知らせ

唐突に出された課題文にとまどいの色を隠せないたにぐち・わたなべ。全てが手探りの中、ついに制作が始まった。一方はオカルトに走り、一方はテクノロジー礼賛に走るなどかつてない混迷を見せる制作現場。果たしてたにぐち・わたなべは美しい/面白いメディアアートを制作し、そのための技術を体得することができるのか。その結末は7月23日(金)の思い出横丁情報科学芸術アカデミー放送部 で明らかになる!


日時
7月23日(金)20時~

URL
http://izonn.com/ustream/oamas

予定プログラム
作品のプレゼンテーション
課題を踏まえて制作されたたにぐち・わたなべの作品をそれぞれプレゼンテーションします
講評
作品について講評していきます。
校歌をつくろう
思い出横丁情報科学芸術アカデミーの校歌をつくるこのコーナー。アカデミーのふたりが書いた歌詞に基づき、作曲家/音楽家の西井夕紀子さんに作曲してもらいます。果たしてどのような校歌ができあがるのでしょうか。
飲み会メディアアートをつくろう
メディアアートをつくりはじめるための契機はそこかしこに遍在しています。思い出横丁といえど例外ではありません。ここでは場末のメディアアーティストであるたにぐちとわたなべが放送時間中に、お店の中にある要素をもちいてメディアアート作品(「飲み会メディアアート」)を制作します。
メディアアート多事争論
最近あったメディアアート的な出来事に対して、独自の観点から斬り込みます。こんなことに斬り込んでほしいということがあれば、お便りにて教えてください。

お便りの宛先
思い出横丁放送大学へのお便りの宛先は以下のとおりです。

omoide.mediaart@gmail.com

上記のプログラムに関係するもの以外でも曲のリクエストなどもお待ちしております。深夜ですのでくれぐれも送り間違いにはご注意ください。


途中経過を知りたい方へ
Twitterでハッシュタグ「#hikotanneCBC」で検索すると、制作の途中経過を知ることがで きます。18日の放送部で、連載第2回の解説を行ないました。その模様はこちらで視聴できます。


Information

そろそろ押し入れから夏物の服を出します。(たにぐち)

前回、妹のことを書いたら家族の関係にヒビが入ったので、個人的な話を。この夏から山口県に生活の拠点を移すことにしたので、当地の美味しい食べ物の情報お待ちしております。(わたなべ)

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