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そんで、そのPARTYおんたまでは実家3Dという作品の新しいバージョンを演奏したんですが、ライブ終わってすぐにQue君が

「オブジェクトと音が合ってない感じがして微妙」

と批判してくれて。で、なんかそれが新鮮だったというか、ちょっと嬉しかったんですよね。薄々自分でも気づいてた所を的確に突いてきたって事と、そもそも褒める人はいても、作品の悪い点を指摘してくれる人って少ないから。批判の方がその姿勢に度胸というか責任持たなきゃいけないので必然的にその内容が論理的、具体的になりますよね。だからこう言ってくれる人は大事だなと。

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谷口さん二回のエントリーにわけて書いていた置き方について
言いだしっぺの僕なりに言及してみたいと思います。



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奴隷化される作家

さて、まずは谷口さんの展開してくれた理論を僕なりに分析してみたいと思います。

1,2,3,

この数字の並びをみて、漠然とこの3つの数字のあいだに、「ひとつづつ値が増える」というルールが共有されていると感じられる。そして、「4」という値が次に来るのではないかという事も想像できる。前回書いていた、「2つを結ぶ共通の文脈」とは、この「ひとつづつ値が増える」というルールの事で、「映像と音の組み合わせで生まれる、そこにはない別のイメージのようなもの」というのが、想像される「4」という数字のようなものなのではないか。「1,2,3」のようにルールが事後的に与えられるように配置し、「4」を描くということだ。

”1,2,3 と来たら、まぁ、それは誰でも4を想像してしまうし、それを表現する自体はおもしろくもなんともない。”
とゆうのはすごくよくわかります。
自らに課すルールとは自己を抑制するためでなく、一定の規律をもってその運動の中から力を増殖するためが故に価値があるからです。
作家が己に課したルールに縛られ従わされた表現は作家自身が自らを奴隷化してるに過ぎず、
それは当たり前に予想できる予定調和を見守るだけの非常に退屈な作品になるかもしれませんね。
ただこれは案外、転覆可能な要素であるとも僕は思います。

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初手の引力

まず、”1,2,3, と来たら 4”である以前に、”1”とゆう数字が置かれた瞬間から放つ支配力が
増加のルールをもたらしており、それに注目してみたいと思います。

ここからは絵画的なコンポジションを参考にしながら語ってみたいと思います。
まず、一つのキャンバスがあるとしましょう。
そこに、”1″の要素を置くとする。
次に来るのは、”2”でしょうか?
または、”A”かもしれませんし、
“!”かもしれません。
このタイミングでは様々な可能性があり
次の手は断定されてはいませんが
かなりの確率で”2”に導かれるはずです。

なぜでしょうか?なぜ”2”が優先的に?
それはとてもシンプルです。
”1”の本質は”数字”で、もっとも相性がいいのは同じ属性であり”1”に追従し増加の法則を予測しやすい”2”なのです。
”1,A,f,”とくるよりも”1,2,3,”と流れたほうが圧倒的に心地よいのは確かでしょう。(この心地よさの例としてあげるならば、黄金比などでしょうか)
この関係性について、僕は”美しさの罠”なのだと思います。
人とゆうのは、描く際に自然と自らが心地よいと感じるタッチを置いてしまいます。
それは無意識な視線の流れの中からいくつかの可能性の中から選び出され、人の視線がそこに誘導された結果として
美しいバランスのために求められるポジションへ身体の動作が導かれやすいためです。
これにより、”1″を設置した時点で画面内のコンポジションはほぼ自動的生成されます。

また、キャンバスや壁面とゆうのは画面のフレームがあるが故に有限的なので、あまりにも複雑な法則を持ち込むと結果として画面内が破綻しやすくなります。
もちろん卓越した画家ならば、いかなる複雑性を持ち込んだとしてもエレガントなコードに変換しダイナミックな視線誘導を展開できるでしょうが
それは(見ればそこにあるのだから)オープンではあるが作家独特の変換を経るために、この場合で参考にするのはふさわしくないでしょう。

つまり、最初のワンタッチで画面とゆうのは強く支配されるのです。1が置かれれば2を引き寄せ、Aを置けばBが引き寄せられます。
僕はこれを、「初手の引力」と名付けることにします。

つまり谷口さんの作品で例えるなら、サランラップやパブロンといったイメージには
付加される情報があり、そこから必然的に引き寄せられる要素があるとゆうこと。

そうゆう意味合いも含んだ上で、谷口さん

「オブジェクトと音が合ってない感じがして微妙」

と言ったのだと思います。
だと思いますとゆうのは、ウイスキーを4杯飲んで若干酩酊気味であったためであり
まさかブログに書いてくれるほどの内容だったとは思ってなかったのもあり

批判の方がその姿勢に度胸というか責任持たなきゃいけないので必然的にその内容が論理的、具体的になりますよね。だからこう言ってくれる人は大事だなと。

正直に言うと、責任感のかけらもないテンションで話していたためです(ドヤァ

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ルールのレイヤー

では、その初手の引力が存在するとして
それをいかにして”退屈なルール”に回収されずに展開していくべきなのでしょうか。
僕は参考例として、ライブペイントを行なう際に現れる最初のワンタッチとその連続性を示したいと思います。

多くの観客が視線を注ぐ緊張感の中でライブペイントがはじまり、一振りをする瞬間。その時、画面の構成がすでに一つの啓示を受けます。
ですがそこから展開されるものは1,2,3 とゆうルールの下敷きはなく(つまりなにも想定しないで始めている)
設定された時間と身体性、そして即興であるからこその加速度的な思考といったものの中で構築されるので
少ない時間内で効果的に現れる表現で画面を構成するために
必然的に、導かれやすい要素は省略され最低限の支持体で画面が展開されていきます。
それ故に”1″を置いた後に現れるものは増加のルールの上にもう一つのルールをレイヤーとして構築することが
無意識に行われています。
これは単に重層化することを指しているのではなくシンプルな法則を実用的な理論で演算することで、
鑑賞者の思考の速度よりも速く、描き手の思考すらも振り落とすようなコンポジションが生まれているのではないか、
といったことを僕は普段、考え実践しています。
ただここで展開されるものはとても即興性が高く、正直僕自身が終わった後に自分がなにをしていたか記憶がないため
あまり具体的なモデルで記することはできません(爆

なので、ここは僕のライブペイントの動画を貼っておくのでこれを参考に僕の謎理論を読み取っていただければと思います。
ファーストタッチの置く位置、そこから流れる動線なんかに注目していただけると少しはわかりやすいでしょう。



あくまで、即興性の中でのみ成立する理論なので指摘している部分とは若干ズレているかもしれませんが
予想されやすい退屈な要素にダイナミズムを生み出す一要素としてひとつの参考になればと思います。
ちなみに、こっちのVerは日用品と聞き覚えのある何処かの日常音が調和して
白背景の中で世界を拡張しているように見えて好きです。






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次はもうちょっとまとめて書いてみたい。
正直、書いててわけわからんくなったとゆうか若干脱線してるのは否めないし
たぶん、感覚的に構築してる要素をもう一度言語化するのは作家が言うと正確な実像が掴めないような気がする。
とゆうか、僕にはあまりそうゆうの向いてない系男子かもしれません。
谷口さん許してペロペロ

peace

Houxo