年末なので、大掃除が近づいている。
オフィスの大掃除、自宅の大掃除。誰しも大掃除をすべき場所を1つくらいはお持ちなのではないだろうか?
私は掃除がとても苦手である。最初のうちは、あるべきものをあるべき場所に片付けていき、整理していく。燃えそうなものは燃えるゴミとしてまとめ、燃えそうにないものは燃えないゴミとしてまとめる。それはさすがの私にもできる。



しかし、それを進めていくうちに強大な壁にぶち当たる。それは、電池である。掃除を進めているうちに、ちょこちょこ電池が出現する。ベッドの下や本棚の裏、電池はあらゆるところから出現する。ここに至って、私の脳はエラーコードを吐き始める。
電池は燃えるゴミなのか燃えないゴミなのか、いや、それは燃えないゴミだろう。だって電池が燃えるわけないじゃないか。だったら電池は燃えないゴミに入れれば良い。いやちょっと待て。電池をゴミとして出すのは正しいのか? 電池をゴミとして出すと、処理するときに放電してゴミ処理場の方に迷惑をかけたりしないか? 電池はゴミなのか? そもそもこの電池はまだ電気が残っているんじゃないのか? だったらもはやこの電池はゴミじゃないだろう。ゴミなわけがない。

そこで、私は新しい概念を生み出す。「ゴミ未満」という概念である。つまり、ゴミっぽいがゴミかどうかわからないし、ゴミと断じるには時期尚早なもの、それが「ゴミ未満」である。
そして、私は新しい場を用意する。燃えるゴミでもなく燃えないゴミでもない、「ゴミ未満置き場」だ。部屋の中の任意のスペースに、ゴミであるかどうかよくわからないゴミ未満のものを置いていく。そのためのスペースを確保するのだ。

そうこうしているうちに、私はまた、別の強敵に出会う。「クリップ」だ。書類などを留めるクリップ。書類は廃棄できるが、それを留めていたクリップが後に残る。その瞬間、私はそのクリップを必要としていない。だからクリップはゴミだ。主観的な意味ではゴミだ。・・・・しかし、本当にそうなのか? だってこのクリップはまだ使えるだろう? 私が馬鹿だった。間違っていた。このクリップがゴミなはずがないだろう? このクリップがゴミだなんて、噴飯ものである。
結果として、すべてのクリップは「ゴミ未満置き場」行きとなる。
そんな強敵に立ち向かっているうちに、限りなくゴミに近いものから限りなくゴミではないものまで、「ゴミ未満置き場」は「ゴミ未満」なもので一杯になるのである。
しかし、そんなゴミ未満なものたちをどうにかしないと大掃除は終わらない。
結果として、大掃除の最後に、私はゴミ未満なものたちを「ゴミ未満袋」にまとめて押し入れに詰め込むのである。
さらに、それを数年続けた結果として、私の部屋の押し入れには数年分の「ゴミ未満袋」が鬱積していくことになるのである。これは本当にひどい。

しかし、ほぼ同じようなひどい状況が、もっとひどい形で起こっている場所がある。
日々使っているMac Book Proのデスクトップである。
PCのデータの中には、かなり「ゴミ未満」なデータが多い。数年前のプレゼンの没ネタ資料や、今はあまり使わないがいつかまた使うかもしれないAction Scriptのクラス、何に使うんだかわからないが、なんかそのうち使いそうな映像素材。
データは私の歴史であり、財産だ。今はゴミに見えても、また欲しくなるときがくるかもしれない。「お願い! 消さないで!」というアイコンの叫びがきこえる。
そして、これは長年の癖ではあるが、私はかなりの量のファイルをデスクトップにそのまま置くのである。TODOリストも、作りかけの書類もすべて、デスクトップに置いておけば安心だ。

私は、最近クリエイティブ・ディレクターという肩書きで仕事をしている。当然、プレゼンテーションの席で自分のPCの画面を写しながらしゃべることも多い。
しかし、私のデスクトップは、恐らく代官山で働いている人間の中で最も汚いのではないかというくらい通常、ぐちゃぐちゃである。
これは良くない。このデスクトップをお見せする相手は大抵の場合、顧客であり、往々に企業の社長とかだったりする場合もある。そんな方々に代官山で一番汚いデスクトップを見せるわけにはいかない。もう7年この業界にいる。さすがにそのくらいの分別はある。

つまり、プレゼンの前の儀式として、必ず、「デスクトップを綺麗にする」という行動をとらざるを得ないのである。実際、プレゼン時の私のデスクトップは、「これが佐藤可士和の超整理術ですか」くらいのレベルで綺麗になっている。洗練されていると言っても良いのかもしれない。
なぜそんなことが実現できるのか? もちろん、1つ1つのファイルを確認して移動したり削除しているわけではない。削除なんてとんでもない。デスクトップは私の生きた証であり、「ゴミ未満」の山だ。デスクトップのデータを削除することは自分自身の人格否定に近い。どうせみんな認めてくれない。せめて自分だけでも自分を肯定してやりたいと、常々思う。

どんな魔法がこの洗練されたデスクトップを実現するのか。
その秘密は、デスクトップにぽつんと置かれた1つのフォルダにある。
このフォルダは「trs1203」と名付けられている。デスクトップにあるフォルダはこれだけである。この「trs1203」というフォルダは、「12月3日のtrash」ということを意味する。「12月3日のゴミ」である。
PCには、ゴミ箱という場所がある。「ゴミ」なのならばゴミ箱に入れれば良い。
しかし、ここには大きなパラドックスがある。「trs1203」にはゴミなど入っていないのである。入っているのはすべて「ゴミ未満のデータ」である。ゴミ箱に入れてしまったら、間違えて削除してしまうかもしれない。先ほども書いたが、それは自己否定に他ならない。

「trs1203」の中をよく見ると、いろいろなデータにまぎれて、「trs1125」というフォルダを見つけることができる。これは、「11月25日のゴミ」である。さらにその中には「trs1112」、その中には「trs1101」、その中には・・・・。
賢明な読者は既にご理解頂いているかと思うが、つまり、この「trs1203」の中には、私のデスクトップの全ての歴史が詰まっている。しかも、入れ子状に詰まっている。11月1日、11月12日・・・、自分のPCでプレゼンを行うたびに、私は新しい「ゴミ未満」フォルダを作り、その他のデータをすべてそこに移動しているのである。

これは、「ゴミ未満袋」で満ちている私の部屋の押し入れに近い、いや、もっとタチが悪い状態だ。何しろデータというのは質量を持たない。がゆえに、「ゴミ未満袋」の中に「ゴミ未満袋」の中に「ゴミ未満袋」の中に「ゴミ未満袋」の中に「ゴミ未満袋」の中に「ゴミ未満袋」・・・が入っているという状況を作り出してしまうことが可能なのだ。




私のデスクトップ以下にある「trs」と名のつくフォルダを検索してみた結果がこれである。かぶっているものを省くと30件、つまりこれは30階層の入れ子構造が私のデスクトップ以下に存在するということだ。30回、「trsxxxx」をたぐっていかないと、デスクトップの底にはたどり着かない。しかも、複数の「trs_0420」という名前のフォルダがいくつかある。中身を見ると全部違う。これに至っては、もはや日付を真面目に入れるのも放棄しているように見受けられる。
「trs1203」のデータ容量を調べてみると、驚くべきことにその容量は50GB以上である。つまり、「ゴミ未満」なデータの総量が50GB以上ということである。1GBのハードディスクがウン万円した時代もあった。そんな時代も今は昔、私のデスクトップの「ゴミ未満」なデータの総量が50GB以上なのである。映像も音楽も楽しめる、来るべきマルチメディア時代に十分対応できるレベルの容量だ。



私たちのオフィスがある代官山に、「大人の蔦屋書店」ができた。しかもオフィスの隣にできた。訪れるとおわかり頂けると思うのだが、これがとっても洗練されていて、おしゃれなのだ。ほどよくオーガニックで、品揃えも気がきいていて、総合的にかっこいい。店員さんの対応も、やたらとマイルドだ。「また、こまっしゃくれた代官山にこまっしゃくれたものができた」と、私は思った。

そう、代官山は、もともとおしゃれでこまっしゃくれた街なのだ。高台にあることも影響しているのだと思うし、いろいろな歴史のもと、こういうことになっているのだと思うが、非常にそういう側面が強い。食べログで「現在地で検索」すると、「メゾン・ド」なんとか、とか「トラットリア・デ」なんとか、とか、そういうのばっかりが出てきて、日本語を探すのが大変な街、それが代官山だ。

そんな代官山に、超こまっしゃくれたツタヤができた。おしゃれなものにおしゃれなものを加算する、「おしゃれの収穫逓増」だ。しかしそれは、標高とか湿度とか、ちょっとした初期設定の違いの上に営まれた人の営みのつながりによって成立している。代官山をおしゃれスポットにしたのは人間だし、高円寺に雑貨屋とライブハウスが多くなったのも人間の行動の結果だ。
人間の営みは、空間にパーリンノイズのような濃淡を描いていく。

こういった現象はどこにでもあることだが、人が活動する場所には属性の濃淡が発生する。それはPCの中でも、部屋の中でも同じことであると思う。人の行動や性格が場所をキャラクタライズしていく。
私のデスクトップが入れ子状になっていることと、代官山にこまっしゃくれたツタヤができたことは無関係ではないのである。
そんな代官山の片隅で、私は頑固に汚いデスクトップで抵抗したいと思う。それが500年後くらいに、代官山が今と違う街になるきっかけになっているかもしれない。