DeSs第〇.七回「運動」中村勇吾 メインタグ〈プログラム〉に行ってきた話
以前から気になっていた、松本弦人さんによるグラフィックデザイン勉強会「DeSs(デス)」(Design Study Session)、第1期の最終回である第7回は、yugopこと中村勇吾さんがテーマということで、秒速で申し込みをしたところ、運良く参加できることになったので行ってきました。
DeSsのサイトではDeSsの趣旨として以下のようなテキストが掲出されています。
「エンブレム事件」は、グラフィックデザインにまつわるさまざまな問題を露呈しました。しかし、問題の多くは「我々(デザイナー)がサボってきたこと」に起因しているように見えます。我々は、人との関わりをサボり、生活との関わりをサボり、社会との関わりをサボってきた。自分と依頼主とデザインという三角関係だけを注視し、デザインは「解決方法」であり「表現」であると都合よく使いわけ、災害/安保/難民問題さらには先人の歴史をもデザイン的に看過した。結果、「伝わる説明」や「的確な批評」のための土壌を築くことができず、「エンブレム事件」で噴出した「稚拙でゆがんだ民意」にすら向き合うことができなかった。
目の前にはやらなければならないことが山積みです。すでに行動を起こしている方々もいらっしゃいますが、グラフィックの体系を考察する土壌の再構築に着手し、社会への理解を広げないかぎり、本質的な解決には繋がらないと強く感じています。
「エンブレム事件」以前から存在する「絶滅危惧種グラフィックデザイン」問題に向き合うために、または、「向き合う意義の有無」の検証のために、勉強 Bar「DeSs(デス)」をはじめます。
確かに「勉強会」って、個人的な印象として、Web業界だと特定のプログラミング言語や、プラットフォームについての勉強会などが盛んに行われているけど、「グラフィックデザイン」の領域については、朗文堂私塾のようなものは別として、有志によるゆるやかな勉強会のようなものってあまり無かった気がする。松本さんのお話しでは、今回は中村勇吾さんがテーマということで、応募者はいままでと客層が少し違っていて、グラフィックデザイナーではなくウェブ業界の人が多かったそう。「本当はグラフィックデザイナーこそ異なる領域のことを勉強するべきなのに、やっぱりグラフィックデザイナーってなめてるんですよ」という厳しい指摘も。
今回の講義内容のアーカイブは後日こちらのアーカイブサイトに公開されるそうなので(どれをみてもすごい資料です。松本弦人さんも「無料で公開して後悔してる笑」とおっしゃっていたので見るならいまのうちかも…)、今回中村勇吾さんのお話の中で個人的にビビッときた内容をメモとして書いておこうと思います。(個人的にとっていた講義メモをベースにしたものなので、発言の趣旨は踏まえているつもりですが、発言の内容を100%なぞったものではないという点をご了承ください)
コンピューター上での表現にハマったきっかけは当時でていたAfterDarkというスクリーンセーバーアプリ。特に”Satori”というフラクタルのパターンのようなものがうねうね表示されるやつがお気に入りだった。当時スクリーンセーバーマニアで、いろんなスクリーンセーバーをコレクションしていた。事前に撮影された映像ということではなく、プログラムでその場で生成されている映像というのが面白いと感じた。ゲームはどう作っていいかわからないけどスクリーンセーバーなら…という感じで作り始めた。
*AfterDarkの紹介ビデオ。”Satori”は6:46付近から見れます。
「アニメーション=現象を時間で微分したもの」として捉えている。だからFPS(Frame Per Second)がすごく気になる。FPSが高いほうが偉い!みたいな意識があって、ハイスピードカメラはすごく興味があった。Dropclockは1000万くらいするハイスピードカメラをレンタルして撮影してみた。撮影は素人なのでトライアンドエラーを繰り返しながらつくった。当たり前だけど自然現象ってフレームレートが無限ですげえ!と思った。
ウェブファーストな映像や、動画的なウェブサイトをつくっているように見えるが、ウェブにしてもアプリにしても映像にしても、どのメディアでも結局アニメーションをつくりたいというところはあると思う。定着として映像のイメージがまずあり、そこからUIなどの演出のディテールに落ちていく。
*ぶーしゃかLoopに見るサイトでぼんやりながめていて「しんどくならない」演出
VJについて:素材としてはリアルタイムに生成しているものと、事前に用意したものがあって、現場では音楽にあわせてマウスをクリックしてスイッチングしている。映像のスイッチングはいわば「音楽に補助線を引く行為」。前ノリと後ノリというのがあって、映像が音よりも前に切り替わると「映像が音楽を奏でている」ように見え、映像が音よりも後に切り替わると「音楽が映像を奏でている」ように見える。その交互がいったりきたりする感じがある。
ノーマン・マクラレンやオスカー・フィッシンガーの影響を指摘されることがあるんだけど、実は全然知らなかった。見たら確かに自分の好きな感じ、と思った。
触るとぷるっとしたりぬるっとしたりして、ただの線が水だったんだということがわかったり、「触れるとその内実がわかる」そういう「アハ体験」wみたいなものが多い。
昔大学の課題で「川をデザインする」という課題があって、川が四角く区切ったり「こんなのかっこよくないですか?」という気持ちでいろいろなアイデアを出したんだけど、先生に刺さらなかった。そんな時とある学生の出したアイデアで、川そのものを意匠でお化粧するのではなくて、水が流れる面にさまざまな凹凸をつけることで水に表情を作り出すというものがあって、その時に「川のデザインというのは、川の形をつくることではなくて、その本質は水の流れの表情をつくる、水の流れをデザインすることだったんだ!」とハッとしたことがある。
他にも面白い話がたくさんあったんだけど、そこはDeSsのアーカイブサイトに期待しつつ、個人的にグッときた部分を一部抽出してみました。かなり面白かった。会場から出ていた質問に対する回答も、「それはこう」という感じではなくて、いろいろな話を引き合いにだしながら「自分はこう考える」という示唆に富んだ話しがどんどんでてくるスタイルで刺激的ででした。こういう話を日常的に聞ける多摩美の人達はほんとうらやましいですね。
あ、あと個人的に一番びっくりしたのは、「同じことを延々くりかえしている。」「同じことを延々繰り返しているはずなのに成熟している感じがしない」というような発言。見てる側からすると、もう、成熟っていうか、もう研ぎ澄まされすぎて「ドス効いてんな」とすら感じてしまうのに。
*冷房がわりに置かれていたブロックアイスも終盤には熱気で水に…