世間がオリンピックで騒いでいるその騒乱についてどう思うとかそういうのとは別に
「つうか名前、“東京オリンピック”なのかぁ〜」と、
49年前と同じ名前だということに、ちょっと複雑な気分になっている。

「東京オリンピック」と聞くと、僕の中でなんとも、せつない気分が起こる。

7年前に死んだ父が若かった頃、父はアマチュアのボクシング選手で、強かったので、前回の東京オリンピックでは補欠選手までいったのだ。

それはすごい事だと思うし、自慢できることだと思うけど、実は父からその話をほとんど聞いた事がない。
そもそもボクシングが強かったなんて話は男子的には憧れるし、オリンピック以前に国体で優勝などしまくってたらしいし、子供の頃はいろいろ聞きたかったけど、ボクシングに関することは、聞くと大抵はぐらかされた。

だいぶ年をとってからも、ボクシングの話に触れると「昔やってた卓球のことか?」と茶化す。

家族で父の実家に遊びに行った時に、たくさんあるトロフィーを、祖父から父が持って帰れと渡された帰り際、親戚に「これ、燃えないゴミに出しといて」と渡すもんだから慌てて僕が引き取ったくらいだ。

子供心に触れてはいけない事なのかなと思い始め、次第に聞かなくなった。母親にさりげなく聞いてみると、どうやらオリンピックの選考でゴタゴタがあったらしく、実力では父の方が上だったにもかかわらず、政治の力で補欠に落とされたらしいのだ。

父の主観からの話なので、実際の話はわからないし、実力の世界なんじゃないのか(そもそも弱い選手が出ちゃったら意味ないわけだし)とも思うけど、当時のボクシングはかなり黒い世界で、国体も、優勝が欲しい自治体に組織が金をもらい、住民票を移したり、アマチュアの父ですらやらされていたらしい。

父はプロ転向せずにアマチュアでボクシングをやめている。ある時「なんでプロにならなかったの?」と聞くと「ボクシングのプロになっても、ゆくゆくは暴力団の用心棒だから」と言っていたけど、その当時にそんな客観的な判断ができるものなのだろうか。

おそらく、オリンピック選考での事がトラウマになり、ボクシングへの情熱を失わせたのかもしれない。そして、ずっと後を引いていたんじゃないかと思っている。

8年前、実家から電話がなり、出ると父からだった。
父から電話がくる事なんて滅多になかったから、とっさに悪い知らせじゃないかと思った。
予感は的中して、肺ガンが見つかり、これから治療を始めるという話だった。
電話の終わりに父が言った
「父さん、久しぶりにリングに上がるよ」
いままで、自分からボクシングに関する話をしなかった父の口からそんな言葉が出たので驚いた。
僕はリングに上る人にかけるようになるべく景気よく「おう、がんばって」と言って電話を切った。

その後、約1年に渡る死闘の末、父はリングに沈んだ。

もし、父が東京オリンピックに出場していたら、ボクシングの道を続けていただろうか、プロになって活躍してただろうか。スポーツマンとしては、とことん自分の実力を試したいはずだろう。
そうなったら僕は生まれていなかっただろう。
そして結果として、どっちが父の人生にとって良かったのかはわからない。

そんな訳で、僕にとって「東京オリンピック」と言う響きは、49年前の父の人生を変えた出来事の事を意味していて、特別な感慨があるのだ。

そもそも普段ほとんどオリンピックに興味が無い僕だけど、
次回のは自分の中で、大会の内容とは全く関係なく、なにかが大きく一周回って戻ってくるような不思議な感覚があり、ちょっと戸惑っている。