少しマメにブログ更新したいなと思うけど、マメじゃないし、
もう少し気楽に、
日々ちょっと思ったこととかを、雑多に書いてみるのもいいなと。
そういうの始めます。


スマフォつまりスマートフォンについて思うところがあったのでメモ。



2006年にYCAMでエキソニモ個展「World B」をやったとき、

「Object B」という作品で4面スクリーンで囲われたでかい部屋を作ったんだけど、

展示オープンしたら小学生5、6人がわーっと入ってきた。



全員手にDSを持って。



たぶん通信対戦系のゲームをやりながら入ってきて、こっちからは何が起きているのかわからない世界にいながら、よくわからないことをお互い言い合ったりしながら、キーボードが勝手に入力されている、わけわからない作品を指さして「ちょ、ウケる!」とか言っているのだ。



その時には、作品の中にある4面とDSの2面の計6面スクリーンを行ったり来たりしている子供に感心した。





スマフォでよく言われる「インターネット常時接続」

そのことによってインターネットのあり方がガラリと変わって、生活により密着してきた。たしかに。



いつでもどこでも、メッセージが割り込んでくる。離れていてもずっとつながっている感覚。延々と終わらないチャットを続けているようなTwitter。駅の路線図探すより、乗り換え案内アプリ立ち上げたほうが早いし、見たいものも、知りたいことも、思ったらすぐに手に入る。



でもそのことよりも、なんか重要な気がするのが、

スマフォのある位置だ。ポケットからサッと出して、手のひらの上、もしくは目の前の景色の前、僕と景色の間に差し込まれるスクリーン。僕と世界の間。



スマフォ(ネット機能があったガラケーやDSなどの通信デバイスも含めていいのかも)より以前のスクリーンは、据え置きモニタだったし、ラップトップになって、より僕に近づいてきたけど、やっぱり“あちら側”にあった。



(自分)→→→→→→→ (世界)



だとしたら



(自分)→→→→→→→(スクリーン/世界)



スクリーン(=インターネット)は世界の側にあったと思う。





ところがスマフォ以降ではこうなった



(自分)→(スクリーン)→(世界)



自分と世界の間にスクリーンが差し込まれる。



いや、“手”という極私的なモノのこちら側という意味では



(自分/スクリーン)→→(世界)



かもしれない。



そしてスクリーンに映されるのは「ラーメン食べた」とか言ってる、知り合いの状況=別の世界なのだ。つまり



(自分(別の世界))→→(世界)



目の前とシンクロしない世界が自分の中に自由自在に入り込んでくる。

これは世界の構造が変わって来ていると言えるんじゃないか。



なんとなく、この変革は想像以上にすごいことなんじゃないかと感じている。

どこにいても買い物できるーとか、上に書いたような便利さとかなんかじゃない、

はっきりとはわからないけど、写真や映像の発明で、人類の世界認識が大きく変わったような、いや、それ以上の変革なんじゃないかと、個人的には思っている。

(そしてその世界が、他人によって編集されたものだというのはまた別の時に考えてみる)



(ARとはなんか違うのだ。ARが目の前の世界とのシンクロを指向しているのに対して、Twitterなどの距離が離れた関係ない世界が飛び込んでくることのほうが構造として複雑化している。ARの目指すシンクロの到達は、世界と自分との距離を操作しようとしているに過ぎない)



そういう事考えてたのとは別に、

スマフォと同じような立ち位置でありながら、別世界を映し込むものって今までなかったのかと考えてみた。



あった。それは「本」だ。



「本」自体はネット接続されてないから、情報更新も無いし、知り合いのリアルな世界状況と言うよりは、編集された他人の過去の世界だ。だけど、別の世界が自分の側に入り込んでくることは同じだし、だからこそ本を読むということが未だに体験として特別視されている(きがする)



特に手のひらに収まる文庫本、さらに小説の持つ主観的な世界観と、今のスマフォとの相似性は高い。



てことは、スマフォというのはPCのモバイル版というよりは、本のバージョンアップ板と見たほうがいいのかもしれない。



たしかにやたらと電子書籍が騒がれている(僕はあんまり興味ないけど)



スマフォを「手の平に収まるPC」と見ていると何かを見落とす気がする。

「突然変異した文庫本」として見てみると、新しい発見があるかもしれない。