Nerhol : 田中義久と飯田竜太の仕事
今回は、クリエイティブユニット「Nerhol」について書いてみます。 このユニットは、現代美術を基軸に活動してきた飯田と、クリエイティブデザインを基軸に活動していた田中が、作品を制作するところから結成されました。 デザインを現代美術の価値まで引き上げ、現代美術をデザインの世界へ紛れ込ませクロスオーバーさせる事を目的とし、価値基準・使用用途が違う両領域にそれぞれの良さを組み込み、新たな基準を提示する事を主に活動しています。飯田は、本を題材に作品を作っています。解体と再生の手法を用い、立体的な作品を構築します。
(g) exhibition photograph by shin suzuki 『I see,I can`t see/abe』
田中はグラフィックデザインを構築するにあたり、量産されることによって生まれるlinkageやtactilityなどの二次的要素を含めた視覚言語を重要視しています。
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scene1:発足
田中との出会いは、今から3年前になります。東京を離れ拠点を一時、静岡に移した時期です。その前年は展示が多かった事もあり、その展示を田中が見た事がきっかけとなり会う機会を得ました。ユニットの発足理由は、ある作品の制作がきっかけになっています。
作品制作のため、田中の激情な静岡訪問が続きました。田中は、多くて月に3度、東京から新幹線に乗りわざわざ三島まで打ち合わせにきました。その時の事は本当に良く覚えています。当時、高校の常勤講師をしていたので、高校にも招き仕事を見てもらったり地元を紹介するなど、公私ともに仲が深まって行きました。それから半年程、打ち合わせとマケットの制作などを繰り返し、これらの作品が出来上がる事になります。
Scene2:oratorycal type
photograph / shin suzukiphotograph / shin suzuki
この作品がNerholの処女作になります。
田中は、文字や言葉が平面上に展開され使用されているところに注目していました。田中の思考は常に平面的なものに定着、構築する事を基軸に考える思考方法が用いられています。それは平面上にイリュージョンを展開する二次元的な絵画論としての手法です。
飯田は、常にモノを素材として解釈する思考方法を用いていることから、3次元的な彫刻論としての思考方法の中から解釈と定着の思考を進めます。
この作品は、「文字/タイプフェイス」という扱いであり、ここからは決してズレないように制作しました。
本をカットし、レイヤーを重ね、田中の描いた曲線を、デザインされた文字として生成していきました。同じ文字を何通りものカッティング方法で試しました。書かれた曲線は立体化する事が非常に困難なものもあり難航を極めました。
アルファベットの26文字を同一表現の中で統一性を持たせること。これはタイプデザインでは不可欠な要素です。
素材に文庫本を使う事から「本の厚さ」には限界があり、カッティングによって作られるレイヤーの数は、その「厚さ」で限界が決められます。曲線を立体的に引き出し極限まで変形させるにはどうしたら良いか。
本の表紙、裏表紙のどちら側からもレイヤーを作り出す事で、これらの問題は全て解決されました。
デザインされた文字の最小形態を引き出し、まず表紙からレイヤーを彫り込みます。カットされ切り離された紙の破片は同形態のまま整形され同位置の裏面に貼付けられます。裏面に張られた「表紙から切り取られた形状(盛り上がっている)」を基軸に、そのまわりにレイヤーを彫り込んで行きます。またそこでカットされた切り離された紙の破片は同形態のまま整形され表紙に貼付けられます。
この方法によって、本の厚さが形状を保ったまま最大で約3倍まで膨らめられる事になりました。レイヤーの形状によってそれが非常に効果的に出ている文字もあります。また切り離され張り合わされている様子は本の背表紙によって確認する事ができています。
形状生成に対しての問題は解決できました。それから、素材としての本自体に着目して制作が進みました。
本を切り開き、文字としての意味を昇華、再構築の作業をしていたところから、作品に一つのメッセージとしての意味を付加する事に、疑問が生まれました。
本が持つ「文字/文章」としての意味が問題になる。
中に記載されている事項が、表層に現れる文字(アルファベット)の意味をどう表現しているのか。
既存の本を切って制作してしまっては、この問題に解決ができないと判断しました。もし問題が解決されるなら、そのアルファベットを意味として記載する文庫本を探すしかありません。しかしそれは不可能でした。
そこで本自体を制作する事になります。
この本は、oratorycal typeの制作の為に作られた本です。本の著者は飯田です。この本に記載されている内容は、今まで飯田が制作してきた作品のコンセプトに用いられている単語が、1〜15文字程度に分解、単語化され、繰り返し記載されています。
記載項に残る句読点や鍵括弧は、ある小説からの句読点を文字数のまま残しています。これらを残す事は、レイヤーを作成したときにできる断面の表層を、より普通の文庫本に近づける目的があります。
コンセプトが切られ再考される。文字、素材が持つ意味、それ自体が飯田の作品を作品化する為の意味を表しています。飯田の作品自体を解体、再構築はできませんが、一度文字に置き換え、共有される媒体項としての本に戻す事で、それ自体が「意味をもう一度持つ」事になります。そしてそれらが、アルファベットとして再構築される。しかも用途(文章)としての意味も付随する事ができるタイプフェイスとして。自分の作品が表現の領域から、デザインとしての定着の領域に達した瞬間でした。
Scene3:Exibition Souce at Calm&punk gallery
Oratorical typeの制作を機に、展示会を開く事になりました。それに伴い新作がいくつか作られる事になります。Nerhol のユニット名はこの時に出来上がりました。アイデアを練る田中。そのアイデアを形にすべく彫る飯田。二人の行為が命名の由来になっています。
作品のスタイルは、oratorycal typeの時と同様、作品の方向性を決め、アイデアを田中が練り、作品の素材を決め、飯田が形にしていきました。
photograph / hiroshi manaka
photograph / hiroshi manaka
photograph / hiroshi manaka
南麻布のcalm&punk galleryの展示は様々な方向が提示できたものになりました。写真作品としてのデザイン的なアウトプット、物体構築として彫刻的要素。重みもあり軽さもある世界観を作り出せたと思っています。
photograph / hiroshi manaka
photograph / hiroshi manaka
photograph / hiroshi manaka
この展示を始める前から、展示をやるなら、カタログを作成しようと決めていました。カタログの制作作業はかなりの作業量になりました。
田中が全ての作業を担当し、デザイン的にもアーカイブ的にも優れたものになりました。
カタログの構成は2部構成になっています。一部は、oratorycal type 。ここには切られる前の本が一部ずつランダムに封入されています。
もう一部には、展示を機に制作した新作をメインにしたものが入っています。
photograph / hiroshi manaka
moreの作品は、シール形式になっており、カッティング部分をめくる事で、飯田の作業そのものを体感する事ができるようになっています。他にも様々な作品的要素を、デザイン的にも物質的にも楽しめるように作られています。
このカタログは、展示そのものの情景や空気感を情報化する事に徹しています。カタログはあくまで、展示の記憶を呼び起こすもの、また展示を情報的にアーカイブし所有する事に意味があります。今回制作したカタログは、その二つの要素を超えるように制作されています。展示された空間を実際に味わう事はできません。しかし展示の要素を少しでも、カタログを開く事で、「体感」として残すことができるよう様々なギミックによってそれを踏襲しようと試みています。
手に取って開く行為こそ、展示のドアを開ける行為につながる。
田中の仕事が隅々まで行き渡り感じる事ができるものになっています。
この展示を終える事で、二人の中に新たな作品の方向性が生まれて行きました。
Scene4:Tezuka gene
photograph / hiroshi manaka
これは参加させていただいたtezuka geneでの出品作品のものです。この作品は、今までの作品のスタイルがうまくはまったものになりました。
漫画を切る。しかも手塚治虫の漫画を切る事ができる。二人にとって最高の舞台にでした。
[T E Z U K A]の6文字それぞれに、手塚治虫の漫画が割り当てられています。それぞれの文字の窓にあわせられるように、漫画を読みあさり形に合った窓を探し、極力デザインしないようコマ分けをしました。サイズは掲載当時のオリジナルサイズを用い、紙もなるべく掲載当時に近づけるため週刊誌で使われていたものを使用。漫画のページを一枚一枚スキャンし、プリントにかけ、世界に一つだけの切る為だけの手塚治虫の漫画本を作りました。
あとはその窓に会わせてレイヤーを刻んで行きます。断面に見える手塚のキャラクター。表層の窓、震度が深くなるに従って様々な表情を見せていきました。何度も「ここでカッティングを止めたい」と思う美しい部分があるのです。これは何とも言えない感覚でした。
この作品を切っている時間は、最高でした。
飯田の行為は、ある意味で破壊行為です。しかし、その過程はまさに製造そのものであり、記載された情報の奥にあるものを、偶然的にも垣間みる事ができる行為なのです。この発見を体感する事は、この同時代で何人が体感できているのでしょうか。
こうして生まれた作品は、この展示に発表された作品のどれにも似ることないモノになったと思います。
Scene5:SSTVより発見
Nerholの中には、様々な可能性が眠っています。これは当事者自身が感じている事もありますが、その多くをとても大切な友人や有識者によって気づかされています。SSTVより、会社のロゴをTV上で放送するムービーの作品制作の以来がありました。結果的にはボツになってしまいましたが、非常に奥深い作品の指針になりました。
この作品は、「カットする事で時間が止まる」というところに着目しています。
photograph / yuya wada
フォトグラファーの和田氏に写真撮影を依頼し、海岸で波打ち際の撮影を行いました。約100カットの撮影を行い、その写真自体を駒送りにする事で、映像化するというものです。ただのコマ撮りでは、アニメーションそのものですが、その写真一枚一枚に、カッティングを入れ、コマ送りを止めて行くのです。画面の波はコマ送りによって動いて行きます。しかし一枚ずつ上部からカッティングが進んで行き下部に達することで波が止まります。
この写真は、ちょうど波にさしかかる前のものです。
写真の行程は2回。実際の波をとる。その波の写真は一枚ずつ出力されます。出力された写真は一枚ずつカットされていきます。カットされていく写真そのものをカットする回数と同じく撮影して行くのです。
リアルな世界の中の波と、情報化された波。時間を含んだアニメーションと、時間が止められて行くアニメーションの情報。
相反する二つの行為が交錯し定着されていきます。
Nerholのコンセプトそのものを新たな形で表現できた作品になりました。
Scene6:これから
二人には個々に信じているモノや世界があります。それは合致しているところもあれば、相反する部分もあります。可能性はその両端が合わさっているところだと思うかもしれません。しかしそうではないように感じています。それぞれの相反する部分に、おのおのが寄り添うところにこのユニットの力があるのです。好きなもの同士が集まるのは派閥を作る事しかしない。好きなものが一致するのは良い事ですが、そのアプローチの方法や思考的道筋は全然違うのです。好きじゃないものも、そのものの筋道がわかると理解できる時があるように感じるのです。
Nerholはシーソーの両端にいる二人のように思っています。バランスを保っているときもあれば、完璧に傾いている時もある。その傾きが常に凄く傾いていたいのです。どちら側にも。
これは願いでもあります。半端なく傾き合った関係の構築を生み出したいと。
それが極限的な作品を生み出す事になるのではないかと思うのです。
読んで下さり、ありがとうございます。