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1. Production of opening to the public by sentences.

February 23, 2009
Ryuta iida
アーティスト、飯田竜太による連載。

Ⅰ 作品について

社会に在る様々な物から「本」という、文字情報を含んだ素材を使って、彫刻的作品を成立させる試みを行う。

感じたり解釈することができる「もの」とは、なにか

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作品:I see,I can`t see-mishima

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作品:I see,I can`t see-hiyoshi


これは「本」が切られて、開いています。左側半分は元々の背表紙によって綴じられたまま、全てのページの断片(紙の表側)があらわになり、内容が見えるかのような形(ライン)を持っています。また右側半分は、左側に呼応するように同じ形を持っています。こちらは本が開かれながら、切られていった破片。ページすべての裏側を断片として見ることができています。
本は一冊に戻すことができ、大きさ、質量共にもともとの本のままです。
 
本を読む行為を、切る行為に重ねて行う。時間的束縛を解き放ち、本を一冊読んだときと同じ視覚的効果を断片によって再現する。
切られ生まれた断片に因るラインは、文字を文字の範囲から昇華させ、読むことを拒ませ、更に「本」がもともと持つ深い意味を、形状的な効果として読ませる「もの」として集約する。

アートが持つ面白い側面は、常に流動的に変化し続ける時間的観点と、形状、物質的「もの」との交差。その側面に自分の生としての時間と時代的背景を流動的でありながらも定着させ、存在させたい。
 文字こそ形状は変わらないが、常に意味、使用、目的を変えている。そこにこの作品のコンセプトが付随することで、作品が成立する余地が有ると考えた。そこにアートとしての成立が見えた。 

意味の摺り替えが、アートになる。これは先の作家が既に構築した手法だ。「もの」のお置き換え、思考の摺り替え。現象的に有る「もの」が、意図的な思考によって、そのもの自体でいられなくなる。いわゆるイリュージョン的思考は、常に頭の中でおこり、その操作を受け入れ消化し思考している。

もともとこのプロセスは2次元的言語(文字)に端を発するのではないだろうか。

文字の発祥は形がその全てだった。それが簡素化され象形文字になり、よりフラットな記号に置き換え、共有性を増し、現在のような文字型式のレベルまで進化していったのだろう(自己推測)。元々形だったものや現象、それ事態を共有する為に文字があるなら、文字は文字を制作した人間の思考にある現象をすり替えたものと考えられる。文字というきわめてミニマムなもので様々な物が想起できることはきわめてアート的なプロセスのもとで考えることができる。

「本」は最小単位である文字が、言葉という関係性を持ち、さらに連続し、二次元的物質の制約のもとに、ここに存在している現象物を摺り替えているに過ぎない。
そう考えることで、彫刻的にこの「本」を、物質的に解釈する手法に結びつけ、解き放つ行為ができるのではないだろうかと考えた。彫刻のそれは、現象そのものとして成立するからである。そしてそれは「像」(*1)として成立する。

「本」の中にある文字。関係性によって生み出された言葉。それが時間的概念によって結束した物語。全てがすり替えられたものであるなら、すり替えられた意思や、情景をその物質の中に少しでも見ることができたら。今、綴られている摺り替えのイリュージョンから抜け出せ、本来の物質的な形に戻せるのではないか。それこそが、今ある「もの」の現象を理解、説明する行為になるのではないか。

イリュージョンを作り出すような、まがい物ではなく。本質である「もの」自体を感じる、心意をくすぐる「もの」こそ、現代のアートとして彫刻が成立するコンセプトのように思う。

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作品:ornament of book1

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作品:ornament of book1-1


本に記載されたすべての文字が刳り貫かれている。文字は各単語に分けられ瓶につめられている。
画像を見る限りでは、このことが容易にわかる。この作品において重要なことは、「本が付随している、人の行動が誘発される要素」の発見にある。

この本は展示の際、閉じられ置かれていた。本は手に取ることができ、開くことができるように展示されていた。持ったとき初めてその重さに気づく。本の大きさ、厚さからは想像することができない軽さ。まずそこで文字というものの重さも感じることができる。
本を手に持ち、開く。初めて傍らにおかれた瓶に気づく。そしてつめられた文字に気づく。

本は「手に取り開く」という行為を必然的に人に行わせる。文字自体も読むという視覚行為と、理解という脳的行為を誘発する。
この作品には読む行為が無い。文字の欠如によって読むことができない本。しかし、そこには欠落した文字の空間から二次的であるが立体的情景を生み出し視覚的に反応させ、読む-解釈するといった脳的行為へ移行する作用がある。

作品が持つ「もの」の性質が変えられ、全く違った本としての作用を生み出しているこの要素は、本が持つ要素のそれを移行していることになる。そこで見える情景からか、行為自体からか、なにがしかを人に解釈させる。

何かに例えたような解釈ではない、人がもつ五感的なものを超えた解釈が産まれることを願い制作した。何かに見える、何かに例えられるといった類いの解釈ではない。その向こう側に、この作品は成立していることを願いたい。


Ⅱ 作品と場所

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作品:岡本太郎展示作業1
 
展示という行為はとても興奮する作業のひとつだ。様々な作家によってそのスタイルは違う。しかしこのように感じるようになったのは、最近のことだ。
今まで作品を考えるときに、行為とコンセプトの共有、作品としての成立といったような自己内包された問題点しか考えていなかった。
しかしいくつもの展示を経て、その考えにプラスすべき思考が芽生えた。それは場所性についての思考だった。
作品自体が最高のパフォーマンスで存在していることはとても強固な情報として成立しているが、それがどのような場所(=人)にあるかはそのもの自体の意義、成立性を変える。場所性を無視して展示された、その情報は強固のままにありつづけることは考えられない。作品が展示される場所、時間、気温など空間的に全く違う空気を周辺に持つことを何も考えず制作、展示することは自分にはできない。
作品の成功、不成功を言っているのではなく、この場所で「何を言うべきか」また「何が伝えられるか」ということを考え、変化させることこそ「場所性」的思考だと考える。

2009年2月 川崎岡本太郎美術館で「第12回 岡本太郎現代芸術賞」が開かれている。この公募に自分の作品が展示された。写真はその展示の模様だ。
作品の展示プランは公募の段階で提出しているが、それがそのままどおりに展示できるとは限らない。状況は常にかわる。時間に猶予があるなら、それを最大限に生かし、思考と制作を繰り返す必要があった。
作品は前項記載(画像1)のシリーズ。本が開かれていることから、台をどのような形状にするかが問題だった。
作品にあるコンセプトの一つに「デストルドー」 (*2)という言葉がある。これは、自己破壊性による生の確立といったような意味がある。昨年はこのことを基軸に考え、作品を作った。この言葉に「場所性」「作品の在り方」の答えがある。
台座は6mmの鉄の棒でできており、一つの台に17冊本が置くことができる。展示可能範囲は5m × 5m 。台座が20列展開され、本は340冊並ぶことになった。
作品は台座とともに揺らぎ、安定性を欠く。しかしこのことが作品を成立させている要になった。本をきった断層は揺らぎ、文字も時間に呼応し揺らいでいる。モノの成立が「見ること」であるなら、強固な台に置かれることが必然だが、このコンセプトは時間の破壊。周辺境界の破壊。常に静止し続けないことが必要だった。
 
「デストルドー」(*2)は自己確立のために、自己を破壊することで、他者と自己との境界を理解し自己を認める衝動エネルギーを言う。この作品は手法によって確立され個を維持しているが、それが場所性によって曖昧になり無意識に共有制を増し単一されている状態にあることがわかる。確立化された「もの」も同じように確立化された複数の「もの」の中にあることで、個を失い個別の共有体を形成する。個の確立とは個自身が認識することで、他者的に認識される意外は常に個別の共有体を形成しているにすぎない。他者的な認識は同じ状況で他者も個を確立していないと個を感じることは無い。
情報が交錯する中で、個の存在意義に破壊性を用いるのはとても安易であり、多様されている。破壊的な行為は個を判別する自慰的行為になるが、比較化以外に、共有体からは逃れられない。確立された個の集合体を形成するだけである。
 
このような思考を展示中に進退させ、完成の形へ導いて行く。思考的なやり取りは行動に直結し更なる自己的な深みへと陥って行く。

自分の作品は、個でもあるし、個の集合も表現の中にある。本という時間的、物質的に個別化された情報を扱うことで、仮想された情報の可塑性、伝達作用の弱体性などを感じ取ることはできないだろうか。「読む」という消費の行為が現実的に目に見えてこない行為なら、その情報自体も目に見えない曖昧なものなのではないか。紙に文字として置き換えられた、ただその現象こそが事実を表現しているにすぎないことを感じ取ることが大事なことのように感じる。
 
作品それぞれが機能するには、制作段階での思考と展示という即時的な思考とが混ざり、意思を伝える最高の空間や場を作ることが必要だ。答えは常に代わり、見せ方や表現も変わる。しかしそこには必ず伝えたいことがある。

何かをゆだねる作品ではなく、確立された意思と個としての表現、現象としての「もの」を伝えて行ければその場は完成されたものになるだろう。

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作品:岡本太郎展示作業2


※引用項
*1 ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」(岩波文庫) (-2・1)
*2 熊倉伸宏『死の欲動―臨床人間学ノート』
  (デストルドーとは自己破壊のエネルギーで、それは自己を確定し認識すること。それは退行の究極点で、原初回帰を目的とする。)

Information

飯田竜太 近況ニュース


第12回岡本太郎現代芸術賞 入選出品 2月7日(土)〜4月5日(日)
http://www.taromuseum.jp/

Ryuta Iida new website open
http://www.ryuta-iida.com


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