『水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ』へ
水野勝仁さんが
『エキソニモの「猿へ」』を読み解く 〜 水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ
というエントリーで、いま開催中の個展への考察を書いてくれていた。
非常に興味深かったので、アンサーブログを書きます。
校正ミスとDesktopBAM
Web Designingの2010年7月号でのエキソニモ特集の中で、「カーソル」に対するコメントの中で、僕らはこんなことを書きました。
カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77)
このコメントに対して、水野さんがブログでエントリーを書いてくれていました。
touch-touch-touch ways of world-implementing
中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性
しかし、ここでクローズアップされている「コンピュータの身体性」という言葉は、実は誤植だったのです。
元々は「コンピュータで身体性を〜」と書いていたところ、校正ミスで「コンピュータの身体性を〜」になってしまったのです。
“で” だと、「コンピュータで身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます」になり、これは《断末魔ウス》に対する感想で、カーソルを見ていると「かわいそう」とか「痛い」とか明らかに自分の身体を重ねあわせて見ている人が多くいたので、そう書いた順当な文章になるんですよね。
でも、「コンピュータの身体性」だと、水野さんが言うように、コンピュータに身体があるのかどうかという問題提起になります。
これはすごく面白いと思いました。
そしてこの時、既に創られていた《DesktopBAM》と「コンピュータの身体性」という言葉が自分の中でバシッとつながりました。
断末魔ウスでは、カーソルが勝手に動かされるというプログラム上は同じ仕組みなんですけど、それを動かしているのは過去にマウスを破壊した時の自分たちの「身体」です。
でも《DesktopBAM》はカーソルの動き自体をDTMで言う「打ち込み」のような方法でやっているので、それを動かした「身体」自体が存在しないわけです。
でも、縦横無尽にデスクトップを駆け回るカーソルを見ていると、頭のなかではそれを操っている架空の身体が浮かび上がってきてしまう。その架空の身体がなんだろうと思っていた時に、これは「コンピュータの身体」なのではないかと、そこでつながったわけです。
こんな風に、校正ミスからの、水野さんフィルター通しの、作品に対する気付き、が
ブーメランのように戻ってくる現象自体がすごくエキサイティングだと思うんですよね。
グリッチとか、コンピュータのバグの持つ美学や、予測不能なランダム性の中に価値を見出していくような、そういう価値観とも同じこと。
校正ミスも社会に出たら立派なバグです。
そして、今回の水野さんのブログでは逆に《DesktopBAM》のミスの指摘が入っているのに、また因果のようなものを感じました。
作った側としては《DesktopBAM》がミスをするのは想定内だけど、心配な想定内であり、微妙な気持ちがあります。
たとえばいわゆる普通のDTM的なシーケンサーは、いちいち演奏毎に曲の感じが変わったりしたら成立しないのでミス自体が起きないような設計になっているのですが、《DesktopBAM》ではそこをわざわざGUIという人間のためのシステムの上で、人に見せびらかすようにして演奏することで、もたついたり、ミスが起きる可能性が残されていて、たとえば人間が演奏するライブなんかでは、日によって演奏の表情が変わったりするゆらぎの部分を味とする見方があると思うんですが、それに近いんですよね。
ミスを無くす方向にいくと、それはシーケンサーだし、
でも水野さんが見たように突然iPhotoが立ち上がってしまって、以降の演奏が台無しになるのは避けたいという気持ちもあります。
実は、僕も昨日たまたま会場にいたら偶然iPhotoが立ち上がってきたんですよね。
その瞬間、演奏が今まで聞いたことがない変なアラート音が混じった状態になって、それはそれで面白かったのですが、偶然なにかのコマンドによって程よいタイミングでiPhotoが終了して通常の状態に戻ったので、ほっと胸をなでおろしましたw
ライブなんかで、エキサイトしたお客さんがステージに飛び入り参加してしまうことってあると思うんですが、それはライブならではの良さなわけで、それと同じようなものだと考えてます。
水野さんはその後、CAPTCHAの話につなげて、表層の話を展開していますが、
まさに《DesktopBAM》がシーケンサーとベクトルが違う部分は、表層を主戦場に置いている部分なんですよね。
CAPTCHAがまさに、コンピュータの苦手な「表層」に舞台を持ってくることで、人間vsコンピュータの戦いを成立させているみたいに(つまり内部処理だったら人間はコンピュータに勝てない)
表層の上に、やっと人間の居場所があるというか、そういう状態にあると思います。
そして逆に、BOTのような存在にとっても表層の上に出てくることで、こんどは人間と対等になれるという面も持っていて、そこが面白いと思っています。
表層というのはつまりインターフェイスということだと思うのですが、
コンピュータは未だにその表層を上手に処理できないし、
インターフェイスというのも、人間からみたインターフェイスと、コンピュータからみたインターフェイスという2つの種類があると思いますが、その隙間のような部分が面白い。
《ゴットは、存在する。》シリーズは、その隙間にスピリチュアリズムを持ち込んだ作品だと、考えられます。
とはいえ、どこまで行っても、すべての作品は「人間」の方を向いているので、あくまで人間に有利な表層での戦いなのかもしれないけど、逆にコンピュータに向けた作品ってなんだろうと考えるのはおもしろいかもしれない。
そして最後に登場する「猿」への考察ですが、
僕たちはまだ明確にそれを説明する言葉は持っていなくて、
だから水野さんの切り口にはハッとさせられるものがあり、
人とコンピュータの関係を突き詰めた時に突然「猿」が現れてくるというのは感覚的にも近いものはあり、
なんというか、
僕らの作品はメディアアートという部類に入るものなんですけど、
メディアアートの展覧会に、一番ありえなかったものだと思ってるんですよね。
猿って
しかも
猿へ
TO THE APESですよ。
ここで言ってる「猿」って動物の猿じゃないんじゃないかと思っていて、
概念としての猿。
どういう風に使って行ったらよい概念なのか、いまだ自分らでもわかっていないですが、
水野さん的な視点もすごく納得がいくし、
直感的に今、すごく欠けているものなのではないかという感覚があります。
思いつきですが、
猿というとやっぱり、さっきのインターフェイスで言うと、人間に近いほうだとおもうんですが、
コンピュータ側の猿、つまり「コンピュータの猿」にもそろそろ出てきて欲しいかなと。
そして、
展示に来た人は見たと思うのですが、
一番最後の出口のところにぶら下がっているiPadの作品があるんですよね。
ほとんど話題に登らない作品でw
宇宙の画像が永遠にPageCurlエフェクトでめくられ続ける(だけ)という、おそらく展示全体で最もエクストリームな作品なんですがw
今回の表層の話をしていて、自分の中で少し考えが進んだ感じがしました。
会期も残すところ2日となりましたが、
今までの活動をずらっと並べる回顧展をやったのは初めてだったので、
いろいろと気付かされることがあり、
これからまた、新しい展開に繋げられそうだなと思っているので、
展示が終わったら、振り返るエントリーをまた書いてみたいと思ってます。
あと2日でここまで走れる人は走ってみてください!!
↓
http://exonemo.com/saru/info.html