インターネットトリアリティ
人類の歴史ってリアルへの敗北の歴史なんじゃないかと。最近の思い付き RT @skkzm: SNS疲れっていうのはインターネットに疲れているわけじゃなくて、リアルがインターネットに侵食してきてるからインターネットすることに疲れるわけでして、、、ある意味インターネットの敗北だと思う。
— センボー (@1000b) 2014, 3月 28
インターネットとリアルについて最近考えていた。
いや、
だいぶ前から「インターネットリアリティ研究会」とか言って、やってきたわけだけど。
最近、渋家のセカイくんのツイートを見てちょっと考えていた。
インターネットがリアルに浸透してきていることをインターネットがリアルになりつつあるっていうのはおかしい。
インターネットがリアルのツールとして奴隷になっている。
インターネットがリアルになるっていうことはインターネットがそれだけで自律的に機能している状態じゃないのかな。
— skkzm (@skkzm) 2014, 3月 25
たぶん、僕が「インターネット・リアリティ」というアイデアでグッと来ていたポイントはこういうところにあったのだと思う。つまり、リアルな生活とは独立した世界としてのインターネットの中にある、そこから始まっている“オリジナルな”リアリティ
僕が「インターネット・リアリティ」という言葉を認識したのはCBCNET主催のAPMT6というイベントで、僕らエキソニモが登壇したセクションのタイトルが「インターネット・リアリティ」だったというのが最初だ。たぶんCBCNETの栗田くんはこのタイトルをつける時に、これが後にICCで展覧会のテーマにまでなるとは思っていなかったと思うが、この言葉には重要な意味が含まれている。
インターネットとリアルの関係を考えるときに「リア充」という言葉抜きには先に進めないと思う。これは日本独自の文化なんじゃないかと思うけど、ネットのカルチャーには「リアルで充実している」という事と「ネットで充実している」という事の間に、くっきりと線引があるのだ。
この2つを分ける線は何なんだろうか。
僕が上に言った感覚からすると「インターネット上にオリジナルなリアリティがあるとすれば、そこで充実していることも=リア充だ」というのがあるので、この2つが分けられるということはつまり、どちらかのリアリティの方が本当の「リアル」だ、という前提がある。それは現状の情勢から言うと「現実世界」のリアリティの方が本物だという前提だ。
現実世界とネット世界を分けることにどれだけの意味があるのだろうか。
いや、話がそれていっているので戻す
あーーーー
(飲みながら書いているのでだんだん話がまとまらなくなってきているけど、このまま行きますw)、
つまり、インターネットが登場した当時に、サイバースペースだ何だと、新しい世界が生み出されたとみんながイメージした。それがどんどん進化していく内に、“リアル”の為の機能がどんどん充実してきた。そうこうしている内に、リアルの世界がどんどんインターネットに取り込まれていって、““サイバースペース””という感じがなくなっていった。このまま行くと、インターネットは““リアル””の為のツールに成り下がってしまうのではないか。それを“““サイバースペース”””だなんてイメージする人はどんどんいなくなって、“““リアル”””の側にそれが吸収されていく。
それは、インターネットの敗北なのではないだろうか、というセカイくんのツイート。
・・・それは
・・・ずばり
「インターネットの敗北だと思う」
。完
いやまて!
それは今に始まったことではないんじゃないか!?
僕たち人類の歴史を見ていくと、
そういったそういったそういった敗北の敗北の敗北の敗北の、連続連続連続連続なのではないか?
とも思えてくる
たとえば絵画、写真、映像、それぞれ最初に現れた時は、現実との接点というよりも、イリュージョンとして迎え入れられたものたち、
しかしそれが今や「かわいい女子が自撮りしてネットにアップ、それを生々しいと言って消費するネット・ハイエナの餌食、つまり現実(リアル)の投影としてのイメージ」でしか無くなっている、のだ!
つまり、
結局、““““リアル””””の圧倒的勝利な現状がある。
(乾杯〜!)
こうなってくると、この問題はインターネットから始まった問題ではない事がわかる。
歴史的にずっと、“““““リアル””””” が勝ち続けているのである。
(酔った勢いで)風呂敷を最大限広げると、
「人類の歴史は、““““““リアル”””””” との闘いである」
ということなのだー。
ではその“““““““リアル””””””” とは一体何なのか。
““““““““リアル”””””””” とはつまり、人間が「自分が存在している」と感覚すること、なのではないかと。僕のリアルと君のリアルは違う。それはつまり、僕が存在することで、僕にとってのリアルが存在する。人間が存在している感覚、つまり人間が生まれることによって発生する感覚、それがリアル、なのではないか。
要約すると、人間が生まれる=リアル。
であれば、人間を生むチャンスを与えられた「女性」という存在、彼女らが行う「出産」という行為が、つまりリアルを生み出す行為である。
と、かなり強引だけど進められりるだろう。
そして、いきなりまとめる
人類が今まで生み出してきたメディアの中のリアリティ、それと抗うように存在してきた「リアル」。
(リアリティって言葉は「現実感」って意味だ。つまり決して現実ではない)
その「リアリティ」と「リアル」の闘争の歴史がそのまま人類の歴史と符合していく。
リアルを支えて来た「母」性。
人類は、ゆくゆくは「母」性と、対決して行かなければ、新しい「リアル」は獲得できない。
今のところ全敗。
さぁどうする!?
というのがもっぱらの課題なのではないかと。
んあーーー、
、、だいぶ酔ってるのでまた書く