ヤミ市のあとに風邪ひいて、1週間以上引きずって未だに鼻声、さらに娘に移しちゃったもんだから幼稚園休み→家にずっといる→エネルギー余って大暴れ→相方疲労困憊→俺心労→風邪なかなか治らない
というスパイラルな一週間だった。
風邪のせいで身体的にも精神的にもキャパオーバーで、仕事一つあぼーんしたので、わりと浮世から離れた場所に身をおくことができた一週間でもあった。

いまだ鼻がズルズルするし、ブログでもダラダラ書くか、というだらしないエントリー。

そんなもうモヤモヤして作業捗らないからよく寝たりした一週間、感覚的な部分で何かが取り戻せた部分もあり、「ヤミ市」で放出したエネルギー、というかそれまでの最近の自分の活動を、落ち着いて見直すことができるような気分になってきてます。

インターネット ヤミ市は、個人的にはすごく楽しかったし、すごく意味があるイベントだったと思ってて、

あれをやったことで、今までフワフワっとしてた感覚がひとつ掴めた感じがする。

自分の中でハッキリと証明されたのが、あの規模のイベントがIDPWに出来たということ。
IDPWは日本の各地に散らばったメンバーで構成されてるので、ほとんど直接合わないし、打合せはHangoutでやってる。そんなので、ああいう規模の“場所”を使ったイベントが出来たことが、自分的には成果だし、証明になった。


多くの人に参加(出店)してもらったし、それぞれの思惑と主催者のそれとはまた違う部分もあるし、主催者であるIDPWメンバー達だってそれぞれぜんぜん違うだろうし、それが問題なく成立するフレームだし、ここで書くことは完全に僕個人の見方であって、なにも代表しないし、今後のヤミ市とは関係ない話。


ヤミ市終わって、ふと思ったこととして、「あ、これってICCでやった [インターネット アート これから] とつながってる」という感覚。

やっぱアレがなかったら、これ企画しなかっただろうなという。

正直、[インターネット アート これから] はお客さんの反応が微妙な部分もあって、ポジティブとネガティブとその両方を凌駕するノーコメントに反応が集約されるという状態だった気がする。

ただ、僕の経験則だとそれはあんまり悪いことではなくて、アートに関して言えば、展示会場で「すげーいいぜ!ビシィ!!」みたいな反応もらうやつに限って、長い目で見ると大したものを残さない事が多くて、むしろ、見に来た友達が歯切れ悪そうな位のほうが、あとあとに響いてきたりする。

以前ICCでやった「ゴットは、存在する。」もまさにそういう感じで、メディアアートの聖地であるICCで、メディアアートを勉強してる学生がみたら失望するようなことやってたわけで、オープンの初日には展示会場の横でメディアアートの大御所たちがイベントやってるのに完全にスルーされたり、お客さんの反応もなんだかよくわからない感じだったんだけど、後々聞くと、刺さる人には深く刺さっていたみたいで、平川紀道くんなんか「希望をみた」とまで言ってたり、高嶺格さんも「新しい流れ来た!」と言ってくれたり、大阪の国立国際美術館に呼ばれるきっかけになったり、したし、もっとボディブローの様にどこかに出てくる予感もある。

それってアートの役割の話で、
そもそもアートってのが、今まで価値として認められてなかったり発見されてないものに価値を見出す仕事だから、そんな誰も知らなかった価値を発表した途端に、みんなが「いいね!」とか言うわけないのはしょうがない話なんだけどね。

反応の良さが、そのものの価値と結びつかないからといって、わざと「わけわからないもの」や「価値のないようなこと」をやるというのは間違ってて、やる側としてはド真ん中ド直球というのは基本だと思うけど。完全に外すのは失敗だろうけど、うまい具合にカスるくらいが後々に後遺症を残す。


話しそれたけど、
つまるところ、[インターネット アート これから] のときは、モヤモヤっとしてた価値が、インターネット ヤミ市でブレイクダウンしたような感覚が僕にはあって、ヤミ市はアートじゃないからもっとわかりやすいフレームなんだけど、「あの時のあの感じに近いものが、目の前で繰り広げられている!」という感慨が僕にはあった。

アートで発見された価値が、ちゃんと世間で運用されるのってすごくいいことだと思うんですよね。アートの存在意義として(ヤミ市が世間かと言われたら、よっぽど狭いアート的な世界だとは思うけど、企画としてはより一般化している)

あの時に「インターネット・リアリティ」=インターネットの現実“感”、と言ってたものがインターネットの現実“化”になったのがヤミ市というイベントだったと。

あとはなんていうかそのー「価値」って話なんだけど、
インターネットってやっぱ嫌儲じゃないですか基本、そこにヤミ市っていうメタファーをかぶせた時に、逆転したというか、むしろそこに金を使う事自体が、ネタ化した感じというか、
ラッパーのA.K.Iが感想で「お金というより地域通貨で売り買いしてる感じがした」と言ってて、
まさに! なんというかあの場でのお金が、いつも使ってるお金って感じがしなかったんですよね。

データとかそういうものに現金的な価値がないってみんなわかってるんだけど、そこであえてお金を払うってことは、データへの対価じゃない別のものに対して払っている、という暗黙の共有感覚があったんじゃないかなって思った。

インターネットおじさん aka 渋家としくにくんなんか、最後には「100円でなんでもやるよ!」「3000円で俺売るよ!」とか、もはやインターネットとか関係ないんだけど、関係無くはない感じ、、、うーん、、ここはまだうまい言葉が出てこないけど。。

結論から言うと、言葉にするのがまだあんまり出来なかったってことなんだけど、
ICCでのインターネット・リアリティ研究会もまた動き始めるぞー!っていう号令がちょうどメールで来たところだったりして、すこし時間がたったので客観的になれる感覚があるし、次のフェーズのことができそうな気がする。

最近自分の中でインターネットに対する感覚が変容した部分があって、
いや、変容というか、ちょっと高い位置から覗いて見るための足場みたいなものが見つけられた感じがしてて、
スッキリしてます。

あとは、鼻づまりが取れたら完璧です。