今回のBCTIONでは本当に様々な悪戯行為が作品にされました。展示を作っている側としては怒りや悲しみを感じたり、また作品と場について改めて考える機会も頂いていると思っています。
そんな中で、

#BCTIONタグでこのような投稿があり、そこから作家であるyang02と投稿者とのTwitter上での会話、またそれを観測していた作家陣や周囲の反応もあり 徐々に議論が大きくなり始めたので事の経緯と状況の整理、yang02をディレクションし彼の展示のサポートを行っていた者として個人的な見解を示しておきたいと思う。



※-1 あくまで私個人の見解であり、yang02氏、またBCTIONを代表したものではないことをあらかじめ申して上げておく。
※-2 また、このテキストは一個人を攻撃するためではなく、より多くの方の鑑賞の助けになることを望みます。

まず作品についてですが、27・28日の追加公開もあるとのことなので、 あまり詳しい解説をすると鑑賞者に予め予備知識を与えすぎてしまうためそれは避けたいと思うが これから初めてご覧になる方にも知っておいていただきたいことでもあるので、大まかな構造だけ説明しておきたいと思います。 今回のyang02の作品に用いられるデバイスはiMacとipad miniと制御されたスプレーから構成された作品であり iMacとiPad miniのSiriとの音声的なやりとりによって作られている作品である。 基本的にiPad miniは常時Siriが起動しており、その操作はオートマティックな機構によって自立して行われる。 この問題ではiPadのSiriがアダルトサイトに変更されたことから起きている。 当然、アダルトサイトが表示されていると正常な動作が起きないため作品には不具合が発生して本来のものではなくなってしまう。

まず状況の整理として、この事態が起きたのは吊るされたスプレーによる落書き行為が二度の発生をした後に起きたと記憶している。 (少なくともそれまでには、アダルトサイトを変更されていた等の報告は受けていません。)


一度目


二度目

 

二回目の時点で現状の展示方法では鑑賞者側からの作品への干渉は防げないと判断し、柵を設置。
これは私自身も立ち会っていたので確かなもので、また合わせて「触るな」というサインのマークを展示室内と入り口キャプション横に設置。
以上の状況の中で事態は発生しており、アダルトサイトへの変更がなされた時に具体的にどのような状態であったかは定かではありませんが少なくとも大きくこの状況が変更されていたことはなかったように思います。
また事態の報告を受けた時はすでにスタッフの手でiPadは復旧されており、報告時に柵と壁を接合していた部分が引きぬかれ半分空いた状況になっていた。
※-3 ただし柵が外されたのは投稿者によるものなのかはわかりません。
※-4 アダルトサイトの変更から復旧させたスタッフからの聞き取りで、事態が起きたのは柵設置後と確認しております。

写真 1写真 2

そして、件の投稿を発見したyang02本人から投稿者への注意があり、そこからいくつか興味深い発言が出たのでそれらを引用しつつ原因を考えたい。

 

 

投稿者本人としては恐らく、操作可能な展示物がある限り自分が触ることが承認されたという主張がここでなされているが 入り口と展示室の二箇所にステッカーによる触ることの禁止を明示しているので、 単に見落としていたか、または操作可能なものを目にした時点でそれが書き換えられたかそのどちらによるものだと思う。 前者であれば展示への注意が欠けていたと言わざる得ないが後者の場合は少し複雑で、認識の違いと飛躍がある。 確かにダブレット端末は画面への接触で操作する故に、つい触りたくなるようなものではあり柵の設置前にはSiriの画面に触ってしまうといった報告は受けていた。(同時にそれ以上の干渉はなかった) もちろん美術作品、特にメディアアートの中には鑑賞者に操作させることで体感可能な作品もあるが その場合には一定のガイドが常に設けられる傾向があり、展示されている=操作してもよい という図式は単純には起き得ないはずだからである。 それは例えばテキストによるガイドであったり、または白台の上に置かれた操作機器であったりもする。 そういう意味では設置された操作可能なデバイスという条件は満たしているのだが、 ただこの場合は接触の禁止のサインが設置されていたし、仮にそれを見落としていたとしても 取り付けられた機構によって鑑賞者の操作なしでも動作する。 そしてなにより、氏の認識では操作可能なものがその警告よりも上位に置かれていることになる。 この認識の溝と飛躍によって発生した事態であると言ってもいいだろう。 また自身の行為を「バグ」と発言していることから、自身の行為が作家が作品の中で意図したものではないことを理解しているとも言えるだろう。 より正確に言えば、”操作可能な機器が展示されてはいるがそこに鑑賞者からの介入があることは本来の意図ではない。しかし、それが発生するのは必然として作家が受け入れるであろうと考えた。” というものであり、このような飛躍した主張がなされる時点で警告や展示上の構成は無視されるものと言ってよいだろう。

以上の状況からこのトラブルは発生しており、また両者の会話のすれ違いも生まれている。 yang02氏は作品に干渉されたこと、またその改変の在り方について怒りを示しており、 同時に投稿者自身は操作可能な展示物へ触ることについて抵抗感はなかっただろうし、作家本人からの申し立てによって初めてそれを認識したので相手からの感情的な言葉に戸惑いつつも謝罪とエクスキューズをしており、心情的にもおおよそ理解し合えないであろう状況になっている。


ここでもう一度整理しておくと私は、この改ざん行為を行った者の行為を断罪するためにこの文章を書いているのではない。 もちろん作品への干渉は望んでいなかったし、操作することを促している場合以外はやめてほしい。 だが重要なのは、この場合に求められる規範である。 なぜ作品を触ってはいけないか。それは作品を守るためである。 なぜなら、作品を展示するという行為は作家が作品に込めた価値を提示することだからであり そのためには鑑賞者一人のエゴによって改変されてはいけないからだ。 もちろん、こういった規範は美術館やギャラリーでは存在しているだろう。 ただ、BCTIONはストリート・アートの祭典と呼ばれており、美術館やギャラリーにはない自由な空気があったのは事実である。 そういった規範がもしかしたら不明瞭な場であったかもしれない。 だからこそ私が「触るな」というサインを貼ったのはそこを明確にするためであり 鑑賞者に美術のルールを押し付けたかったからではなく、より多くの人にyang02の作品を鑑賞してもらいたいからである。 この件のなにを残念に感じるかと言えば、そのために手段を講じたにも関わらずそれを理解してもらえなかったことであり今回はその一点につきる。 また、上記のストリート・アート的な認知によっていくつかの反論も産まれてきているので、そこについても言及したいと思う。 


 




この文脈に対する捉え方は、少々リテラシーを欠いていると思う。 まず一つ目はBCTIONは”ストリート・アートの為の”展示会ではなく、そういった傾向が読み取れはするが実際は廃ビルを使った展示会でしかなく、また参加作家全体で見ても純然たるストリート・アーティストは半数もいかないだろう。 これについては大山エンリコイサム氏も言及しており、彼の説明が適当かと思うので引用する。


 

彼の言う通りで、かなり強引なまとめ方をすれば広義のストリート・アートとも言えなくないのだが、 今回のBCTIONでは実際はライブペインターなどがかなり多くそれは本質的にそれとは異なった文脈である。 ライブペイントなども発生当時からストリート・アートから多大な影響を受けてはいるが直系ではないし、 強いていえばクラブ・カルチャーのものである。 ただし、そこのリテラシーを欠いている状態で捉えれば、そういった認知が生まれるのはそれらの文化が発達した時代性を考えれば仕方ないのかもしれない。 またyang02は作家としてストリート・アートを構造として取り込むことで作品を構築するので、それ事態は大きく間違った指摘ではないのかもしれない。 だだ、ここで2つ目の問題として、ストリート・アートとグラフィティなどのヴァンダリズムの持つ暴力性はまた別のものだということがある。 ストリート・アートはあくまで都市の中における場で、またはその構造を理論的に展開していく表現行為であり、 それは違法性や暴力性が必須の条件ではない。この2つは同一のもののように語られがちだが ストリートという場が常に違法性を帯びているわけではないように(もしそうなら我々は外にでることさえできないだろう)、 それらは分けて考えるべきである。 そして仮にBCTIONがある種の暴力性を帯びている空間であったからといってヴァンダリズムは手放しに受け入れられはしない。 確かに時としてストリートではそういった行為が起きはするが、それは違法行為であるが故に異なったルールが存在しており 誰かの作品の上から干渉していけばそれは挑発行為として受け止められバトルという報復行為による返答がなされたりする。また違法行為であれば警察に捕まって賠償責任を問われることもある。翌日には消されていたり、持ち主から恨まれもする。 もちろん、今回の干渉が挑発的な意図であるかどうかは実際はわからないが、目的がどちらであるにせよ、また文脈的に見ても yang02の対応は彼の表現上の作法として間違っているわけではないと考える。 そして私が先ほど述べた規範というのは、ストリート・アートという文脈で展開しても矛盾するものではないし むしろそれは異なった他者と交差する空間だからこそ示すべきものだと考える。


 

 


千房さんの言うとおり、ストリート・アートが違法行為の中から生まれてきたのは事実であるし、そうした行いから生まれた作品は性質として美術館のように保護されるべきものではないのかもしれない。ただしストリートは規範なき世界ではなく、それぞれの規範が交差する場であるからこそ、他者との関係性が結べるのではないかと考える。「私はこのようにしてここにいる。あたなはどのように考えどう振る舞うのか。」といった対話の中から共生の道が発生するのではないだろうか。
また今回の作品の場合の”他者”とは作品の中で交わる存在であったのだけれど、予期せぬ第三者の介入によって起きた事故とも言える。恐らくyang02の言ってる「面白くないし不快でしかない」という言葉の本質は審美的な問題やアダルトサイトを公共に映し出す道徳観の問題というよりも作品に介入されたことで生まれる関係性が正しく生成されなかった部分にあるだろう。(アダルトサイトを表示するのにどれだけの意味や目的があるのか。少なくともあの行為からは私はなにも感じれない。)そういった意図すら持たないものをどう美しいものに変えていくかは作家やその作品の意図によって大きく変化するだろうが、当然それは精査して無視をしてもいいのでそういう意味では「作品に回収する価値なし」と判断されたということだ。
もし仮にオンラインポルノを通して社会に訴えたい価値があるのであれば自身の行為としてなんらかの形で示すべきであるし、隠れて他者の作品を改ざんすることで達成しようとするのは”バグ”などですらなくただの姑息な手法のように見えてしまう。(バグは構造的に生まれてくるが、今回は対策が講じられていたので人為的な意図をもった行いだ。)そういった介入の在り方によって作家は怒りを感じたのだろうし、それについて謝罪を述べるのであれば自身の行いを必然のように語らないでほしいとは思います。
当人は自身の行いが美術的であるとは認識していないかもしれない。しかしながら美術作品への介入というのは美術的に判断されるだろうし、そうであることを知っておいてほしい。作品の中には他者の参加を積極的に促すものもあるが体験を得るための参加と作品の内容への介入は本質的に異なるからこそ、私としては目の前にある作品が本当にそういう作品なのかどうかしっかり見極めてほしいと思う。それは警告のサインや柵だけではなく、作品の展示方法によって読み取れるはずだ。(操作可能なものがあるから触っても良いのなら、原理的にほとんどの美術作品は操作可能だろうし改変して良いことになってしまう。)あなたの目でよく見て、考え、そして行動を決めてほしい。その上で、どうしようもなく介入しなければならなかった時に初めて新たな関係性が構築されるのかもしれない。しかしながら、それはとても厳しい道でもあるだろう。


もちろん、美術になど興味もないしそこの論法を理解するほどの積極性が持てない人が一定数いることを私は理解している。最初にyang02の作品に落書きをされた時に「敬意を持ってほしい」と言ったが、極端なことを言えばなにも感じれないなら敬意など持たなくとも良い。だが、だからといって破壊行為をすることは断じて承伏できない。お互いに異なった規範を持っているのかもしれないし、一つの合意を作ることが難しいのかもしれない。だが、他者への一方的な振る舞いにこそ今回の問題はあり、それはどの様な場であっても受け入れられることはないのだ。
関係性を作っていこうとするならば、どのように試みていくのか。それこそがストリート・アートと言われる表現に備わっている力学であると私は考えているし、そのために今回の考察を行いました。
願わくば、このテキストを読んだ方たちが異なった他者と美しき関係性が作られることを期待して、この文章を締めくくりたいと思います。
長文乱筆をお許し下さいませ。

HouxoQue