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This is not a CupNoodle

いや、なんだかこの前、GB忘年会にてイケメンデザイナーの大楠くんから
Recodeについて伺っていたときに
僕が普段リアリティを持って感じている情報と物質の壁とか
その辺の感覚がジェネレーションでもない領域でスライドしてるのを感じたので
それって結局、主観性なんじゃねーのか???って思ってここ数日悩んでます。
なのでそのこと書いてみよう。
まったくまとまってないからわけわかんないと思うけど。



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まず、大楠くんが参加しているプロジェクト Recodeがキャンバス出力していて
エディションが存在してないことについて僕が「それって購入する側として価値を感じれるのか?」って
疑問を抱いたところからはじまりました。
その辺については大楠くんなりの回答をいただけたんですが
こうゆう場で僕がごにょごにょ言うべき内容でもないし脱線するのでごにょごにょ。

でそのくだりの中で、大楠くんと(僕は性格がネジ曲がってるので)反証するテンションで話していて
まずエディションで価値を担保をしようってのは結局、美術目線だよね。そこにこだわらなくてもいいよね。ってなって
(しつこいようですが、ここでRecodeが美術かそうでないかとかは触れるつもりないです。)
そして、その先の話として大楠くんが「エディションがないこと自体がひとつの魅力だと思ってほしい。」と言っていた。
カップラーメンとかはエディションないし、もうある種の情報でしょう。でも体験として個々が獲得できて
そうゆう感覚に近いんです。とかそんな感じだったと思う。(酔ってた)
いや、わかる。わかるん。るんるん。
生産ラインで品質を一定に保つために個体差を限りなく減らして、もはや差異が微細なノイズレベルに達した製品では
唯物的な価値なんてはっきりいって並列すれば皆無だし情報そのものに変貌しかけている。
そうゆう意味では確かに納得できちゃいもする。

でも、僕はどちらかとゆうとそこのカップラーメンが生成されて物質化されるまでのエネルギーとされた先での世界を
ある種のレイヤーとして捉えていたし、ましてや情報に限りなく近くともそのものとは認識してなかったわけです。
でもそこで「一緒やん」って言っちゃう度胸とゆうか、冷淡さ。
なんかあれ・・?感覚ちがう?いや、似てるけど、全然違う!こんなんウチの知ってるカップラーメンと違う!!!!
みたいな
ただお前がおっさんになっただけだよ。と言われてしまえば身も蓋もないんですが
そこじゃなくて、その違いが面白いとか正しいのどっちとかでもないんです。
立地点みたいなものが違うと同一の対象であってもホントに個人単位で変質するんだな。と実感したことが
きっと僕の中で気になったんだと思う。

この辺まで書いて、風呂入ってて思ったんだけど
見るものの階層によってそれぞれが獲得するリアリティは同一の対象であっても変質するってことかも。
恐らく、大楠くんは情報の領域でのリアリティを語ってくれたんだろうけど
僕は物質をこすりつけてあれこれやっているので、認識が変わって一致しない。
(僕は、どんなに唯物的な価値がなくても、その座標にあるカップラーメンはただの情報の複製ではなく複製の果てにあるオリジナルであり物質としての意味があるものだ。と考える。)
ただ、表像と実在みたいな感じに捉えたらこの問題は見失うとは思うので、もうちょっとこの辺の奥行きは考える価値がある。
そうゆうわけで自己の立地点がどの辺にあるのか、
そしてその視界はなにを捉え得るのかとゆう確認作業をここ最近はしています。

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そんな大楠くん(モテる)の参加しているcookedとゆう電脳料理ユニットがオシャレに特集されていました。
宣伝しちゃうYO

カーディガン部


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あと僕の宣伝です。

flourescence_view_image

前回のエントリーでもお伝えしましたが、現在開催中の僕の展示が明日最終日です。
で、慎ましくもクロージングパーティーをします。
今回はライブペイントとゆうよりも公開制作といった赴きでパフォーマンスをするつもりです。
その際にセッションしていただくSPANOVAの憲さんが即興でピアノソロを演奏していただきます。
本当に素晴らしい演奏をなさる方ですし、ソロでの活動は非常に稀なので皆様是非!
とゆうか来てください、お願いします。

FBでイベントページを作成していただいておりました。
こちらからどうぞ

では、明日お会いできるのを楽しみにしております。
クワル


Houxo Que