Canvas in Monitor

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about flourescenece view

前回のエントリーからの続きです。
イメージそのものの価値に頼らず、物質としての意味を作品に求めた理由について
僕なりに言語化できる範囲で説明していきたいと思います。
たぶんちょっと長くなります。
ってゆうか、長くなった。


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イメージの価値

まず、はじめに
現時点で僕は、視覚的に捉えられた像 – イメージ の価値自体が現代では消失した と考えています。

それは例えるならば、写真の登場とゆう技術革命によって心地よい安眠から揺り起こされた当時のようなもので
今まで担保され続けてきた価値の拠り所が転覆してしまった状態。
重要なのは、今回はそれが絵画的な意味だけではなく、
この世界で想像される画像とゆう概念自体に起きている現象のように思われることです。
なぜそのようなことが起きたと僕が感じるのかといえば、
それはテクノロジーとネットワークの発展によってもたらされた情報の複製から起因しているでしょう。

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ここで、それ以前のイメージたちの在り方を振り返ってみましょう。
(かなり乱暴に端折っているので各自で補完する形でご理解いただけるとありがたいです。)
過去のイメージ達は、主題には文脈の継承から生まれる価値がありました。
印象派以前であれば、歴史的な、また宗教的な絵画としての価値。
そこから印象派が主題を現実に誘導したことにより現代アートの出発点が生まれ
さらにモダニズムのキュビズムやポップアート、抽象表現主義などを経て、
現代のコンセプチュアルアートなどに至っているでしょう。
この間に写真は登場し、絵画とともに発展していったと言えるでしょう。
そして重要なのはここまでの歩みの中で、技術的な問題があったために生産者は限られており、
また複製に関しても常に物質的な束縛(印刷など)が存在していたことです。

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では、現代では?
芸術家や(僕は好きではない言葉ですが)クリエイター達はやはりある一定数と言えるでしょうが
誰もがPCを持つ今、その一部の人間のみが生産者ではないでしょう。
(ある程度の知識があれば)気軽にフォトショップやイラストレーターを立ち上げイメージを作れますね。
それはキャンバスを木枠にストレッチして、そこに絵の具を広げてイメージを描くより遥かに容易に習得可能な技術です。
ネット上で提供されるゲームですら、簡易的な描写ができるものもあります。

そして、印刷技術に取って代わりつつある情報化とゆう進歩は質量もたない情報の複製を可能にし
さらにネットワークの発達によって過去に例を見ないほどのイメージの流通をもたらしました。
それは無限のコピー。
一度、アップロードされたイメージたちはネットワーク上でブックマークされ、タグをつけられ、
まるで宇宙の膨張のように拡散しつづけるのです。
限られた出版者のみが持ちえた複製の権利は侵略され、もはや誰もが無自覚にできるほどになりました。

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先日、友人たちとキャンプにいったのですが
僕を除いてほぼ皆がiPhoneを使用しており電波が通じない環境で
皆がなんだかソワソワした様子だったのが印象的でした。

これはネットワークに依存した現代人に対する隠喩ではありません。
問題なのは、ここで彼らのもつ端末に非常に精巧なカメラが搭載されていることです。
つまり、ネットワークに接続可能な環境であれば誰もが撮影をし、アップロード可能であるとゆうこと。
このことが意味することは、いかなる像も無限のコピーからは逃がれることができないとゆう事実。
驚愕すべき技術革命です。

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さて、そんな技術進歩の果てにある今の現実で、絵画の、またイメージの価値とはどこにあるのでしょうか?
無限にコピーされ、並列された画像たちからはもはや文脈や質感は感じられません。
そこにあるのはピクセルの配列。
僕はそこから、過去の歴史が担保してきた要素はすべて引き剥がされたように感じます。
そして、毎日途方もない数の様々な(この世界のほぼ全てと言っていいほどの)イメージが複製され、
視覚の上を流れていくのです。

serch : image - SS
無限のコピーの断面

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どれだけ情報が複製されたとしても、オリジナルが持ち得る価値はそれによって損なわれることはないかもしれません。
しかしそんなテクノロジーに依存した現代社会の中で、
描く対象としてのイメージに、もはや継承されてきた価値が消失したとするなら
絵画はどのような在り方があるのだろうか?描くべき、描かれるべき対象などもうないのではないか?
だとしたら、もはや内容であるイメージには意味性などないのだろう。
そうゆうことを考えていた末に、内容ではなく事象としての絵画といった視野が僕の中に開けてきました。
テクノロジーによってイメージの価値が駆逐されたことで、この意味を持たない行いとしての意味性みたいなものが
近年になってまた拡張されてきてると僕は考えます。
(抽象表現主義に非常に近い考え方だと自分でも思います。)
もちろん、今後はフォームやマテリアル自体の改変など様々な発展の可能性があるでしょう。
キャンバスなどはあまりに完成されきったフォームですし、それを用いて転覆することすら美術に回収されている現状です。
ただ、そこにもそれなりの突破口があるだろうと考えていて
その辺の構想についてはまた別の機会に語らせていただきたいと思います。

flourescence view #29

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最後に宣伝になりますが、今回の展示作品はLifeinArtとゆうサイト内にて販売しております。
価格帯も新作らしい設定にしていますので、是非宜しくお願い致します。

LifeinArt - SS


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追記 10/27/8:44

谷口さんが先日お話した際の内容を発展させているので
次のエントリーでは、コンポジションのことなどを書いてみたいと思います。
もっぱら感覚的に画面構成をしている僕ですが、ライブペインターは独特の構成力を持っていると思うので
そのあたりにも言及しつつ、相変わらずの破綻した文章でいえっせっしょー

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peace

Houxo