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「責難は成事に非ず」という言葉がある。これは、読んで字のごとく、「他人の誤ちを責めても物事は成し遂げられない」ということだ。
見た感じ、中国古来の格言とかのように見えるが、小野不由美のライトノベル「十二国記」シリーズの短編集「華胥の幽夢」の中の一遍に出てくる登場人物・砥尚の言葉だ。2001年くらいの本なので、故事でもことわざでも何でもないのだが、十二国記シリーズには、ラノベのくせしてこういう大事な言葉がちょこちょこ出てくる。アニメ版を嫌がる息子に無理矢理見せる程度にはバイブルだ。

もっとライトな言い方をすると、否定だけしても何も生まれない、みたいなことになる。よく会議なんかで言われる「否定するなら対案出せ!」とかにもまあ通じる。この砥尚という人物は、前の王の政治を否定して革命を起こし、自分が王になるのだがその後のビジョンを示すことができず行き詰まった結果、この「責難は成事に非ず」という言葉を遺して亡くなってしまう(このファンタジー小説の中では、王様は国政に失敗すると死んでしまうことになっている)。
まあしかしこれは全くその通りで、出口の無い否定というのは、世界をシャットダウンすることにつながってしまう。



最近の私はと言えば、なんというかいろんな方面で怒りキャラだ。なかなかの責難野郎になっている。ニューヨークに来たきっかけを肴に会社に怒ったりコード書かないクリエイティブテクノロジストはクソだとか言ってみたり。
ことに、自分でもうるせえなあと思うのはこの記事あたりから始まったカンヌ批判だ。ここで言うカンヌというのは、知らない人にお知らせすると、毎年6月にフランスのカンヌで開催される、世界の広告クリエイティブ界の最大のお祭り「カンヌ国際クリエイティビティーフェスティバル」のことだ。有名なカンヌ国際映画祭のことではない。あれは5月だ。

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私はこの広告賞にだいぶお世話になっていて、ありがたいことにそれなりの受賞歴もあるのだが、いろいろ疑問に思うことが多々あり、もう積極的に参加することは無いだろうと思っていた。
しかし、今年は新設のデジタル・クラフト部門の審査を担当することになったので、こんなインタビューを受けたり、いろいろカンヌについて語る機会があったのだが、まあもう先ほどの記事にもあったように怒ってばっかりだ。

私は5年前にデジタルの制作会社(プロダクション)から半分広告代理店のような会社(そのつもりはないが)に転身し(というか、そういう会社を設立し)、そこそこ業界の中での立場が変わった。

これは業界(いわゆる広告業界)の外にいると全然みんな知らないことなのだが、広告業界というものは、日本に限らず結構エグい上下構造になっている。
たとえば、新発売の洗剤のCMをつくるという仕事があったとする。
この場合、洗剤の会社が「クライアント」となって、広告代理店にテレビの枠の確保やCM制作などを依頼する(枠の確保と制作は海外では別の会社がやるのだが、日本は同じ会社がやることが多いのがとても珍しい)。
そのCM制作仕事を受注した広告代理店は、CMの制作会社に制作の実業務を発注する。映像制作の監督だったり、スケジュール管理だったり、編集だったりの現場作業は、制作会社が担当する。広告代理店は何をするのかというと、クライアントに対してコンセプトを提案したり、そこでプレゼンして通した内容を制作会社に指示したり、というのが仕事になる。

仕事の発注構造がクライアント→代理店→制作会社という形になるから、悪い言い方をすると、代理店はクライアントの下請けだったりもするし、制作会社は代理店の下請けとなる。「そうじゃない!」と言っても、そうなりがちである。
どこの世界でもそうかもしれないが、広告業界における下請けである制作会社の末端要員なんていうのはなかなかにひどい扱いである。
制作会社の人間は、原則的に広告代理店のディレクターに対してNOと言えないし(もちろん、そうではない幸せな関係もないわけではない)、広告代理店の側でもプロダクションに対して「そういうつまんない作業はダクションにやらせとけ」みたいな態度で明確に奴隷扱いしたりする現実は確実にある(もちろん、そうではない幸せな関係もないわけではない)。

で、この元請けたる広告代理店の方々が、営業からクリエイティブまで、とにかく誰も彼もがよくこの時期のカンヌに行くのだ。
私は制作会社の末端要員をやっていた人間なので、このあたりは非常に敏感だった。とにかくこの時期は誰も彼もがカンヌに行くので仕事が止まる。というか、カンヌ前になると、「カンヌ行ってくるから進めといて」的な空気が蔓延する。
年末進行よろしく、カンヌ進行というか、カンヌの時期に物事が進まなくなることを前提にスケジュールを組んだりする。

制作会社の進行管理係(プロジェクトマネージャー=プロマネなどと言う)は、テレビ制作で言うと、わかりやすくいえばADみたいな扱いだったりし、もっとわかりやすくいうと「あんまり人権を認められていない」ので、そういうものの煽りを食ったりするのが日常だ。その事自体はある程度仕方なくて、ちゃんとその活動をみんながリスペクトしていれば良いとは思う(そうじゃない不幸な関係は多いわけだが)。

しかし、プロマネも人間なのだ。一見そうじゃなさそうに見えるほどに業界内での上下関係はきついが、みんな物を考えているし、ちゃんと見て、聞いている。そこに到達するまでの人生を生きている。
何が言いたいかというと、当時制作会社のプロマネだった私は、「この代理店の人たちは、カンヌで一体何をやっているのだろう?」という基本的な疑問に至ったのだ。人間だから仕方がない。制作会社の多くの人や代理店の若い人は同じ疑問を持っている人が多いのではないだろうか。
私がそれを理解したのは自分で初めてカンヌに参加してからだ。

多くの人たちは、この時期のカンヌに「勉強しに行く」と言う。私も、「カンヌに行ってこれこれこんなことを学んだよ」なんて言われて「ふーんそういうものか」とも思っていた。実際、カンヌでは賞にノミネートされたCMを映画館のようなスペースで流したりして、それをぶっ続けで見ていたりすると、すごく勉強になったりするし、デザイン部門の入賞作品のパネルを眺めていると、ひどくインスパイアされたりするものだ。
それらは間違いのないことで、私自身、半広告代理店のような会社をつくって以降、カンヌに行くことができるようになって、「勉強になったなあー」という経験はなくもない。

それは一側面として、もう1つわかったことがある。それは、日本の広告代理店の人たち、いや世界の広告関係者にとって、カンヌで一週間かそこらかけてやっていることは良く言えば「一年の総括」、悪く言えば「壮大な打ち上げパーティー」であるということだ。

世界中から集まった広告業界関係者たちが、日中から会場に出入りして有名人のありがたい話を聞いたり、知り合いと談笑したりしているうちに、受賞式でその年の優秀な広告作品が表彰されるのを見る。夜になると、さまざまな会社が開催するビーチパーティーなどで、ロゼを煽りながら山盛りのシーフードをつまみつつ、受賞作品の傾向やら日中のセミナーの内容なんかを肴に乾杯し続ける。
もう、これは滅茶苦茶楽しい。どっぷり浸かると結構堕落するくらい楽しい打ち上げパーティーだ。

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さらに楽しいのが、何か受賞した場合だ。この広告祭で何か賞を獲るのは、まあ難しい。特に、受賞式で壇上に上れる金賞などは、相当ぶっちぎりじゃない限り獲れないものだ。
私も、カンヌに行けるようになってからでも5回とか6回とかは壇上に上がっているが、あれは麻薬だ。
発表と同時に作品名と会社名と自分の名前が呼ばれる。世界から集まった広告関係者の羨望のまなざしを受けながらトロフィーを受け取る。審査委員長とハグをしてカメラに向かってイエーイなんてトロフィーを掲げる。会場からはレッドカーペットを歩いて出る。各国のメディアがマイクを向けてくる。翌日の「カンヌ広告祭新聞」みたいなやつに自分たちの姿が掲載される・・・。
虹色の汁が、脳内にピュッピュ分泌されて、「またここに来たい!」なんて思う。日本ではそうでもないが、海外の代理店では、賞を獲れば給料まで上がってしまうのだ。

私はこれは、そもそもは健全な構造だと思っている。制作会社のプロマネとしては疑問に思ってしまうところもあるけれど、こういった「褒める」装置が機能するからこそ、年々新しい価値が生まれるし、成長していくのだ。

これを書いている今、カンヌではまだ広告祭の真っ最中だ。多くの人たちがまだカンヌで打ち上げパーティーのただ中にいる。
私はデジタル・クラフト部門の審査を終え、さっさと仕事場であるニューヨークに帰ってきて、これを書いている。

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今年のカンヌの前半で大きなニュースとなったのは、シリア難民の救出をネタにしたスキャム広告(偽広告)がプロモ&アクティベーション部門で受賞したことだ。
この業界には、スキャム広告というものが存在する。上記の通り、広告賞を受賞することはとても麻薬的な出来事だし、実際に実利も産まれたりする。
だから、賞を獲るためだけの、実際に実施されていない偽広告をつくって応募する=スキャム広告というものが、カンヌには蔓延しているのだ。

で、そのシリア難民のスキャム広告は、iPhone用のアプリだ。カンヌではもちろん、こういうデジタル広告も評価されるので、慈善団体向けのアプリなんかも評価の対象になる。
受賞した「I Sea」というアプリは、インストールすると地中海の衛星写真をリアルタイムに見ることができ、それを使っているユーザーに、広大な衛星写真から人を満載した難民船を見つけてもらう、という「みんなで難民船を見つけよう」アプリだ。
アイデアは非常に素晴らしいし、実際にそれで難民船が見つかったら素晴らしいことだ。

しかし、このアプリが偽物であることが発覚して、AppleもAppStoreからの取り下げを行った。このアプリにおける衛星写真は、リアルタイムでも何でもなくて、ただの固定静止画だったのだ。つまり、このアプリで難民を見つけることなんて不可能だ。
これをつくった人たちは、カンヌでトロフィーをもらうだけのために、手の込んだ偽アプリをつくった。シンガポールの広告代理店だ。
つくった人たちは、受賞という麻薬中毒者だっただけだ。とにかく賞が欲しい、実際に世の中に機能しなくても、とにかく壇上に上がりたい、それだけだったのだろう。
しかしこれは人の命に関わる話題だ。大人であればこれが絶対についてはいけない嘘であることなんてわかるはずなのだが、それすらもわからなくなってしまうのがこの麻薬の怖いところだ。

当然ながら、これは業界の職業倫理に関わる恥ずべき問題だ。がゆえに、発覚後、業界内で大きな話題となってボコボコに炎上している。

しかしこんなものは完全に氷山の一角でしかない。
広告賞の甘い味に魅せられた多くの人々がこういった偽広告をつくったり、個人のアート作品をそのまま、ノンクレジット・無報酬・無許可でパクったり、なんていうことは日常茶飯事だ。

日本のひどいところでは十数年前から行われている地方の行事を、海外の審査員が知らないのを良いことに「今年自分たちがつくった」ように事実誤認させて受賞した事例すらある(後になってこの事実をその際の審査委員長に伝えたところ、真っ赤な顔をして怒っていた・・・)。
そして、それを「つくった」人がそれによって地位を得て、日本の比較的大きな広告賞の審査委員長などをやっていたりもする。まあなんというか、もの凄い世界だ。
今年も既に、事実誤認を促すような受賞事例が日本からも出ていて、一部で話題になってしまっている。

このあたりにカンヌの巨大な矛盾と空洞化がある。前述のとおり、カンヌはある種「勉強の場」だ。若いクリエイターからクライアントの担当者に至るまでが、受賞事例を見て感動し、影響を受け、それを母国に持ち帰る。しかしその受賞事例がどんどん偽物になっていく。
そして、説明だけがうまい偽物が、ちゃんと丁寧につくられた本物の広告を駆逐していく。
他の業界からは、「広告屋は嘘つき」とバカにされる。
ちゃんとしたつくり手は出世せず、ズルをした嘘つきが出世して偉くなっていく。

もうそういう状況になってしまっていて、カンヌという麻薬装置がそれを促進して、業界をダメにしてしまっている現実があるから、私はカンヌを批判している。もともとは素晴らしい「褒める」システムなのだ。構造を抜本的に変えてやり直して欲しいと思っている。
だから私はカンヌというイベントの構造にも怒りを表明してきたし、節操のない偽クリエイターたちにも怒りを表明してきた。

しかしどうも最近の私は、否定ばっかりしている責難野郎になってしまっている。「怒る」ことは大きな声で状況を伝えるには良い手段だが、同時にとてもお手軽な手段で、根本的な解決にはならない。
自分でもこんなことばっかり言ってると鬱々としてくるし、自家中毒的にどんどん苦しくなってくる。

そこで今回審査をしたデジタル・クラフト部門だ。細かい審査過程とかは、一緒に審査をした日本人である電通の米澤さんがいろんなところで話されたりするはずなので割愛するけれど、この部門は本当に良い部門だった。
クラフト部門、つまり、制作物が「よくできているか」を評価する部門だから、アイデアだけでは出品作品を評価しない。ウェブサイトやアプリ、すべて実際に細かく触って体験して評価をする(逆に、インスタレーションなど、実際の制作物に触れないものは不利になる部分があった)。
流行りのVR(ヴァーチャル・リアリティ)作品も、全部ゴーグルをかぶったり、HTC VIVEを使って実際のバーチャル空間を触ったり、一通り体験して評価する。

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この部門の最高賞・グランプリは、「Because Recollection」。ソーシャルメディアとの連携もない、他のメディアとの連動もない。「ただのよくできたウェブサイト」だ。しかし、本当に良くできている。あらゆる細部が計算されていて、触り続けていることがとても楽しい。
6日間の審査の中で、とにかくいろんなものを触った。その中で、世界中から集った審査員が感心して一番「よくできてる!」と思ったのがこれだった。

この部門の受賞式、まだ一昨日のことだが、そのときに、自分にとって最も印象的な出来事が起こった。
グランプリの受賞者が発表されて、壇上から降りる際、観客席で様子を見ていた自分を含めたデジタル・クラフト部門の審査員が自然発生的に一斉に立ち上がり、受賞者に向かって移動し、全員に握手を求めた。
他の部門ではそんなことは起こらない。しかし、私たちはそうしないではいられなかった。これは、代理店が入っていない制作会社からの応募作品だった。受賞者たちは、実際にこの恐ろしくよくできたウェブサイトを自分たちの手でつくった本物のつくり手だ。実際に散々触ったから、そこにどういう時間と熱量が掛けられていて、何の手抜きもないことをみんな知っていた。そこにいる人たちが真に褒められるべき人たちであることが明白だったのだ。

私はこの世界に入るとき、デザイナーの中村勇吾さんに強く憧れていた。最初に勇吾さんにお会いしたとき、「本物だ! 触りたい!」と思った(緊張して話しかけられなかったので、触れなかった)。
たぶんそれと似たような「こいつらすげえ! 触りてえ!」というのが全審査員の握手リレーという珍事につながったのではないかと思う。

この人たちがまたつくったものを見たい。自分たちも負けないように良いものをつくりたい。だから、真っ白な気持ちで相手を褒める。尊敬に値するから褒める。きっとそれは未来につながる建設的なモチベーションだ。
カンヌによって鬱々としていた自分に、そんな体験をさせてくれたのもまたカンヌだった。



今の私があるのは、いま一緒に会社をやっている伊藤さんのおかげだ。
自分が制作会社のプロマネとして、「BIG SHADOW」というインスタレーション広告を担当したときが初めての伊藤さんとの仕事だった。
前述のとおり、制作のプロマネは末端要員だ。スタッフクレジットでも、どんなに頑張ってもまあまあ下のほうだ。
しかし、「BIG SHADOW」がカンヌをはじめとする広告賞を受賞したとき、伊藤さんは、自分の次に、私の上司や他のスタッフを差し置いて、私をスタッフリストの上から2番目に入れることに、頑なにこだわった。
一番プロジェクトに貢献した人間として私をきちんと褒めてくれたのだ。
広告会社や制作会社に務めたことがある人は、それがどんなにあり得ないことかわかるのではないかと思う。そのくらい伊藤さんはそこを大切にしてくれた。
その行動で伊藤さんが見せてくれた「出口」が私を今という未来に連れて来ているのだ。

「責難は成事に非ず」。褒めることは素敵なことで、褒められることは未来につながる出来事だ。
私は、つくり手としては正当に褒められたいし、評価する側としては曇りのない気持ちで褒めたい。
結局何が言いたいかというと、是非、今回私たちが選んだデジタル・クラフト部門の受賞作たちを実際に触ってみて欲しいのである。これらのほとんどは、嘘無く良いものだと思う。
そして、このまま放っておくと何もなくなってしまう私たちの「業界」にとって、何らかの「出口」になると良いなと思うものである。