2日に1度blogを書くという流れになっていたが、なんとなく土日は何もできず、間があいてしまった。
というか最近は土日になるとスイッチが切れたようになってしまって、
考えていたことや作業も一旦途切れてしまう。

なので、前回書いた内容からは少し離れてしまうが、基本的には一人の人間が書いている事なので、なんとなく通底する部分があったり、後々接続して考える道筋が見つかるのかもしれないと思い、別の事を考えてみる。まさにこのblogが途切れてしまう原因であるところの普段の生活の事だ。

普段の生活の中で、美術というか、物を作ることについて考えたり、作業をする時間はほんのわずかで、ほとんどは漫然と生活の中の諸々に費やされてしまう。学生の頃は課題があって、ほっといても何か考えたり作らされていたので、そんな生活の事というか、生活と創作活動について考える事もなかったと思う。単純に忘れているだけなのかもしれないが。

思い出横丁情報芸術アカデミーの連載を始めた時、渡邉君とやりとりしていたメールの中にこんな一文があったのを思い出したので引用する。

どういった企画なのか:
快適なメディアアートライフをエンジョイするための、メディアアートライフスタイルを提案するコンテンツをつくることにしました。

執筆者の谷口と渡邉が、より良いメディアアートライフに欠かせないトピック/キーワードを設定し、それにまつわる作家のインタビューを行ったり、それにまつわる演習を自ら計画し、実践していきます。

この企画のねらい:
(「生活」を軸に)
(1) 現状のメディアアートの問題点
(2) (1)を解決するための方法論として本連載の提案

貧しさ、乏しさ

これは、連載第一回目を書く前に、CBC-NETのボスであるところの栗田さんに、どういう連載なのかを説明するメールの本文を考えていた時のもので、確か渡邉君が書いたものだったと思う。冒頭で使われている「ライフスタイル」というのは、よくテレビや雑誌なんかで使われる抽象的な意味での“ライフスタイル”というキャッチーさを狙ったものであったが、実際に渡邉君と打ち合わせしていた時は、その後に続く「生活」や「貧しさ、乏しさ」という言葉に繋がるような意味も込められていたと思う。

これは「メディアアートはもっと貧しいテクノロジーにも目をむけるべきだ」とか「メディアアートには生活感がない」とか「コンピュータやインターネットを使うことは、蛇口をひねって水がでるような生活の一部になっている」というような事が言いたかったのではなくて、もっと漠然とした意味で、それが現実の生活と地続きになるための回路みたいなものを考えていた。

メディアアートも含めた美術作品一般の、欠点というか性質として、結局どこかフィクションでしかないという弱さみたいなものがある。すごく簡単に言ってしまうと、絵画はそこにキャンバスと絵の具しかなくて、バラの花が描かれていても、バラの花自体があるわけではないというような事だ。写真や映像もまた、実際の被写体があるわけではないし、編集の恣意性は免れえない。最終的には美術館やギャラリーとか、美術という歴史というか構造みたいなものが、フィクションとしての物語を支えてしまう。2010年の六本木クロッシングでのchim↑pomの作品を思い出したので引用してみる。

http://www.flickr.com/photos/fomalhaut/4464844688/in/set-72157623706773684

ショーウィンドウのようなスペースの中央に石膏像(マネキンだったろうか?)が配置されている。「ART IS IN THE PARTY」と壁に記されているとおり、まさにそこで乱痴気騒ぎが行われたかのようにワインやフードが飛び散っている。が、よくよく見ていくと飛び散ったワインやフードは全て精巧な食品サンプルで出来ているのだ。「ART IS IN THE PARTY」という挑発的なメッセージと、乱痴気騒ぎの痕跡のそれは、chim↑pomというアーティスト集団の持つメチャクチャなイメージをなぞっているが、しかしその乱痴気騒ぎの痕跡を、すべて食品サンプルとして行儀よくガラスケースに収めてくるところに、chim↑pomの現代アーティストとしての理知が見える。

一般的に、美術館には食品や土など、腐敗したり虫がわくようなものは持ち込めない。どうしても持ち込まざるを得ない場合は一旦熱処理を施すなどして厳重に管理される。しかし、この作品を引用して言いたかったことは、そういう文字通りの意味で「美術(館)には実物(ノンフィクション)が持ち込めない」という事ではなくて、むしろ逆に「フィクションとしての物語を支えてしまう」その構造と意識して関わらないと美術作品が作れないということだ。このchim↑pomの作品に本物の食品が使用されていたら、ほんとにただの乱痴気騒ぎでしかない。というか、たとえ本物が使用されていても、この美術作品を美術作品たらしめる、美術館の持つ制約や制度が浮き彫りになる事には変わりない。

ちょっと寄り道になったが、前に述べた「結局どこかフィクションでしかないという弱さみたいなものがある。」という時の「フィクション」というのはこのような意味の事だ。「ノンフィクションのドキュメンタリー」のような意味で用いられる時の「フィクション/ノンフィクション」という対立はここには無くて、たとえ作品の向こうに見える物語や現象が事実であっても、作品としてパッケージされたものは全てフィクションになってしまうというような事が言いたかった。「弱さ」と書いたのはそのフィクション性に由来するもので、政治や社会の問題を扱った美術作品であっても、それが美術作品であるかぎり、政治家や市民活動家ほどには政治や社会を変えられない。というか作家自身もそれを知っていて、フィクションだからこそ、そこに実現できないかもしれない突拍子もないビジョンを描く。

渡邉君とのメールの中で「ライフスタイル」という言葉を使っていた時の「現実の生活と地続きになるための回路」という漠然とした意味は、メディアアート作品の中で、フィクションとして描かれるものを、どのように現実の生活と地続きにできるかという事だった。それは、リアリティの問題でもあって、連載第二回の課題にあった「幽霊」とも繋がっている。

11/2:
まだ本題に入ってないくらい途中なんですが、ちょっと長くなった&明日祝日なのでいったんここで公開しておきます。この後に書き足すかもしれないし、途切れてしまうかもしれないです。