月日が経つのは早いもので…
こんにちは。思い出なんちゃらアカデミーの谷口です。月日が経つのは早いもので、前回の連載から1年半近く、blog投稿も1年近く間があき、しまいには自分たちの学校の名前も忘れる始末です。
さて、唐突にblogを再開してみます。
というのも先日、PARTYおんたまというイベントでライブをしてきたのですが、その会場でこのCBC-NETのボスであるところの栗田さんが
「インターネットで、blogってのが最近流行ってるらしいよ」とか「2日に1本書こう」
と、大体そんな趣旨の事を言っていて、Que君も
「2日に1本書く」
と、酔っててあんまり覚えてないですが大体そんな感じだったので再開してみます。
そんで、そのPARTYおんたまでは実家3Dという作品の新しいバージョンを演奏したんですが、ライブ終わってすぐにQue君が
「オブジェクトと音が合ってない感じがして微妙」
と批判してくれて。で、なんかそれが新鮮だったというか、ちょっと嬉しかったんですよね。薄々自分でも気づいてた所を的確に突いてきたって事と、そもそも褒める人はいても、作品の悪い点を指摘してくれる人って少ないから。批判の方がその姿勢に度胸というか責任持たなきゃいけないので必然的にその内容が論理的、具体的になりますよね。だからこう言ってくれる人は大事だなと。
で、この「合ってない」とか「合ってる」って問題を多分ここ数年、ときどきボンヤリ考えてて。単に映像と音が具体的な整合性で合致してればいいってことじゃないんですよね。具体的な整合性ってのは、この実家3Dっていう作品で例えると、鳩のオブジェクトからは鳩の鳴き声が、サランラップの箱からはサランラップの音が聞こえる、というような事で、このように音と映像を合致させればコンセプト的な整合性があって、はみ出る部分がなく、全体として充足する。でもこれはとてもつまらないことなんじゃないかなと。
そうじゃなくて、まったく無関係のものが組み合わされても事後的に、全体性からその2つを結ぶ共通の文脈が新しく与えられるんじゃないか。というか、そうなるように2つを組み合わせなきゃいけないんだろうなあと。映像と音の組み合わせで生まれる、そこにはない別のイメージのようなもの、つまり鳩とかサランラップとかの1つ1つの具体的なイメージからは離れて、あくまでもそれぞれの関係の中とか、具体的なイメージとイメージの間にある全体性みたいなものが、適切に、かつ事後的に構成として見えてくるような。。なんだかまとめるととても普通な事を言ってるような気がしてきた。変わった事を言おうとか考えようとしているわけでもないのだけれども。
まだぼんやりしてるのだけれども、少しまた考えたり作ってみたりします。
あ、あとQue君、おんたまの時に話してたマスキングテープのやつこれね。
それとキャンバスの裏からってのはこれ。
ではではまた明後日。