物事を理解するためには、比較対象が必要である。比較して違いを発見し、相対化することなしに、正しい理解は難しい。故郷のことを考えるには故郷を去らねばならない。都市のことを考えるには田舎を知らねばならない。日本のことを考えるには日本を出なければいけない。日本語のことを考えるためには外国語を話せるようにならなければいけない。人間を理解するために、ロボットを作ったり人工知能を使い、人間の行動を模倣させてみることによって、逆説的に人間がどういうプロセスで行動しているか考え、学習しているかについて、考えることが出来る。

そう考えると、「翻訳」という行為に非常に興味が湧いてくる。翻訳は一つの言語からもう一つの言語へ、なるべく意味を変えてしまうことなしに変換する行為だ。でもそれは完全には不可能だ。そのプロセスには言語間の比較から、共通点の発見と同時に共有できない事柄の発見がある。たとえばアイヌ語やハワイ語には雨や風、雪を意味する言葉がたくさんあるらしいのだが、それが日本語に翻訳される際にそれぞれすべて「雨」「風」「雪」になってしまうなら、それは多くを失うことになるだろう。違う事象における共通点を見つけ出し、同時に共有できない事柄を発見し、見つけた共通点を伝えること、見つけた共有できない点をどうにかして伝えようとすることは芸術表現においての、ある種の方法でもある。メタファーを用いた理解、表現は非常に翻訳的である。

またもう一つ興味があるのは、コンピュータにこのような「翻訳」ができるのかということ。狭義の翻訳は自動翻訳などの多数の事例があるが、いわいるメタファーを用いての理解がコンピュータにはできるのだろうか。人間は何かを創造する時にこのメタファーを用いた思考法を多用する。いくつかの違った種類のデータ(例えば音と画像)のディープラーニングを施したプログラムを接続してメタファー的なものを発見させることは可能だろうか。いきなり共感覚みたいなものが発生し、人間にとっても意味の通る、音と画像のセットを提示してくるだろうか。少し難しそうな気がする。
人間は五感をリアルタイムに駆使して経験する。たとえば、「うどん」の記憶には見た目、味、匂い、箸でつかむ感触、咀嚼中の音まで、同時に経験し、これらの経験はすべて紐付けられて記憶される。機械学習では画像データは画像データで音や匂いといったデータは紐付けられていない。この辺に活路が見いだせないだろうか。そんな研究はどっか大きな研究所でとっくに始まっているんだろうか。ペッパーがいくつ感覚器官を持っていたかは忘れたが、経験して紐付けられた複数の種類のデータがサーバーに送られているなら、そのデータにはとても興味がある。

高松メディアアート祭の設営中です。