検索結果は2週間まえまでしか遡れなかったtwitterだが、最近つぶやきがすべて検索可能になり、過去のつぶやきへ検索からたどり着くことができるようになった。


でもTwitterのUIでは[1,2,4…last]という類のページングではなくて、スクロールによるページャライズしかアクセスの手段がない。つまり直接過去にアクセスするわけではなく、最新のものから順に辿っていかないと辿り着けないUI上の設計になっている。これはアーキテクチャとしておもしろい選択をしたと感じた。過去をたどるのは上から順にいかなくてはならない。つまり自身のつぶやきのログを追体験することでしか、その過去に辿りつけないようにした。もちろんAPIを直接叩けばそんなことする必要はないけど、そういうUIの設け方にtwitterとしての意図が見え隠れする。こういう小さいことにぼくたちの行動は制限されたり最適化されたりしてて、その記録されうる情報に太ったり痩せたりしていくものだと思う。

岡田斗司夫が著書「いつまでもデブと思うなよ」でレコーディングダイエットなるものを提唱している

日々摂取する食物とそのカロリーを記録することで、自分が摂取しているカロリー、食事の内容、間食などを自覚し、食生活の改善につなげるというものである。(wikiより)



他方、実空間で展開される僕たちの日常会話は自動記録されることなく垂れ流れていく、くだらない冗談もいい話も悪口もFavられることもRTされることもなく、全ては思い出として心や記憶に残って、うわさ話とかに変化し口頭伝承されていく、そういうアーキテクチャのなかにある。twitterでの発言すべてが残っていることに対して、リアルは保存という点ではとても不自由だけど、「いつまでもなつかしい」という感覚はそういうところに宿るのかもしれない。Pokeは恣意的にその感覚を抱かせるようにしているけど、使ってみるとあんがい心に残らない、なぜだかわからない。

普段話したことはどんどん世界から消えていくけどTwitterでつぶやいたことはDBに蓄積されている。人間のエネルギーの詰まった創作物はデジタルであろうとアナログであろうと保存されるべきだし、それ未満の塵芥は捨てたりリサイクルにだしたりしたほうがいいと思う。もし残しておくとしてもまだ残ってるからいつでも取り出せるようにしておくことは、完全にこの世から消えてしまうこととは違うことだ。

そして川端康成が「雪国」の中でこんなことを書いていて、なんとなく名言とされている。

なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、
いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。
別れたあとってそうらしいわ。


今日はウェブのアーカイビングと口頭伝承についてのメモです。