正月は結構休めたので、たくさん本を読んだり、お酒を飲んだりして過ごしました。昨年の反省としては、ブログを書くのに立ち止まって考えすぎて、テーマが大きくなりすぎてまとまらなくなったことで、今年はサクサクっと日記的にブログを更新していこうと思います。



で、お正月は昔に読んで面白かったなぁと思っていた本を読み返していたんですが、そのひとつ、保坂和志の「羽生―「最善手」を見つけ出す思考法 (知恵の森文庫)」という本(棋士 羽生善治の思考法を保坂の視点から綴ってみたもの)のなかに、人間はコンピュータプログラムが打つ将棋に勝てるのか。という話がありました。

映画のメトロポリスとかチャペックのロボットの時代から、人間の仕事をコンピュータの技能が超えて、人間の領域を“侵食”し始めるとか、“管理・監視システムの反逆”とか、コンピュータの逆襲とか、そういう支配しきれない怖さみたいなものが取り上げられることがあります。僕はこういうコンピュータ対人間みたいな対立関係は疲れるのであまりすきじゃないんですが、羽生さんを通して保坂さんはこの部分に大変おもしろい見方をしていたので、その部分を引用してみます。


コンピュータを使い、コンピュータによって加速された現在の研究は、コンピュータらしく網羅的だけど、網羅的なものを見せられるだけで納得するようには、人間の頭はできていない。コンピュータと比べて人間は「二パーセント」の計算力も記憶力もないが、それゆえに、人間は何かを理解するために、コンピュータ式の網羅的な検証方法ではない思考方法を育ててきた。網羅的な検証方法ではない理解の仕方とは、もちろん<本質><法則>を掴むことだ。<将棋の結論>のために必要なことは、<本質><法則>をつかむことで、現在の研究方法で解明されるかもしれない将棋は、それとは別のものだ。「二パーセント」という羽生の言葉は、「コンピュータの計算力・記憶力と比べて二パーセント」という意味なのではなくて、「人間が本来の能力を二パーセントしか使っていない」という意味に捉える必要がある。
大胆なことを言ってしまえば、現在の研究に頭が馴れれば馴れるほど、人間の本来の能力は、「二パーセント」より下がっていく。



で、将棋下手だしよくわからないし僕がこれを読んでて思ったのが、先日話題になっていたwiredのA/Bテストについての記事。ウェブデザインの世界も計算力・記憶力的な意味でのコンピュータ化がますます進んで、デザイナーの手仕事的な部分よりも、統計やテストで最適解を導き出すという流れあります(ただこういった方法でシステムを改良していく方法は、それこそウェブよりもずっと前からあったようにも思いますが)。他方で、bootstrapなどの表層的な見た目の部分をさくっとクオリティ高くつくることができるフレームワークも最近は増えてきていますし、wiredの記事が面白いなぁ。と感じた、bootstrap便利だなぁ。と思っている自分がいるのも確かです。

ただそんなタイミングで羽生の将棋観はかなり面白く感じる部分があって、ライブラリとかテストとかではない部分に“人間の将棋”の部分はちゃんと残ってるんだろうな。と感じました。賀正。